ある日曜日、暇だったので昼寝をしていた俺は、外がうるさくなってきてぼんやりと目を覚ました。
何事かとベッドから耳を澄ましてみると、どうやら名雪と秋子さんが言い争いをしているようだ。すぐ止めようかとも思ったが、あの二人が言い争いをするなんてめったに無いことだからドアからそっと顔を出して見守ってみることにした。
「お母さん、そこをどいてっ!」
珍しく声を荒げる名雪。一体何があったんだ?
「・・・ここは通さないわよ、名雪」
怒って見えるほどに真剣な秋子さん。真琴の部屋に入ろうとしている名雪を通せんぼしているらしい。
真琴の部屋には一体何があるというんだ?
「ねこさんがそこにいるのは分かってるの!お願いだからそこを通して!」
遂にばれてしまったのか・・・。名雪がこうなるのを恐れて隠してたのにな。
それにしても、どうして秋子さんはあんなに名雪をぴろから遠ざけようとしているんだ?いくら名雪が猫アレルギーだからって、あんなになってる名雪を止めるのはちょっと可哀想だ。どうなるかは名雪自身がよく分かってるんだから別にいいと思うんだが。
しかし秋子さんは俺の、そして名雪も想像しえなかった事を言った。
「がっかりさせるからあまり言いたくは無かったんだけど・・・」
秋子さんは沈んだ表情で名雪を見つめ、言った。
「もう猫に触ることに耐えられないのよ、あなたの体は」
「え・・・?」
言葉を無くし、立ちすくむ名雪。その名雪に追い討ちをかけるように、秋子さんは続けた。
「アレルギーが思った以上に深刻なの。名雪に自覚症状は無くても、確実に名雪の体を蝕んでいるわ」
「そんなこと、お母さんに分かるわけ・・・」
「分かるのよ、私医学の心得があるから」
信じられないといった様な名雪の言葉をきっぱりと遮った。
・・・名雪がもう猫に触れない?俺が猫に向かっていく名雪を引き止めなかったからそんなに酷くなったのか?だとしたら、俺は知らないうちに名雪を・・・。ごめんな、名雪。
しかし、名雪は落ち着きを取り戻していた。その顔から動揺は消え、決意が宿っている。
「例えお母さんだろうと死だろうと、私を止める事はできないよ」
秋子さんの表情が強張る。「死」という言葉に敏感に反応したのだろう。それは俺も同じ。
「どんな障害が立ちふさがっていたとしても、譲れないものってあるでしょ?」
「名雪・・・」
下を向き、ポツリと呟く秋子さん。前髪が顔にかかっていて表情は見えない。
「どうしてもここを通るつもりなのね?」
下を向いたままの秋子さんに対し、うん、と静かに答える名雪。ふぅ、というため息がわずかに聞こえた気がした。
「ここを通すわけにはいかないわ。私はあなたが大切だから」
顔を上げた秋子さんに迷いは無かった。譲れないもの・・・名雪のために立ちふさがる。
「ここを通りたいなら私を倒していきなさい!」
いきなり何を言い出すのかと思ったが、秋子さんは本気だった。ファイティングポーズをとり、殺気すら感じさせる視線を名雪に浴びせている。
「・・・」
無言で名雪も構える。そして・・・。
「いくよ、お母さん!」
「一体何なんだ、この二人は・・・」
俺は目にも止まらぬ攻防を見ながら、呆然とした。一進一退の息詰まる攻防。その名勝負を演じているのは普通の女だと思っていた従姉妹と叔母。何で二人とも格闘技なんてものを身に付けているんだ?
俺は理解できない面の多い二人の一面を知った。そして、まだ知らないことは多いんだろうと思う。
十分ほど経っただろうか、二人は少し距離をとって話を始めた。
「これだけは使いたくなかったんだけど、このままじゃキリが無いから」
そう言って秋子さんが取り出したのは・・・例の、あのジャム。
「これ実はただのジャムじゃないの」
「・・・Nazo−Jam」
名雪が謎の言葉を口にした途端、秋子さんの表情が変わる。
「一見するとジャムに見える究極の薬。若さと強さを保ち、多量摂取すると一時的に肉体と脳を活性化する」
呪文のように呟く名雪。それを無表情なまま聞いている秋子さん。
「私たちが食べられないのは、作った本人以外には拒絶反応が起きるから」
そうか、だから秋子さんあんなに若く見えるんだな。俺は一つの謎が解けた。でも、何で名雪がそんな事知ってるんだ・・・?
「よく知ってるわね」
そう言って秋子さんは微笑を浮かべた。
「それなら、これを食べた私に勝てないことも分かるわね?」
その言葉に名雪も微笑を浮かべる。そしてポケットから取り出したのは、Nazo−Jam。
しかし、秋子さんに動揺は無かった。それどころか、ますますニコニコしている。
「まさか、もう完成させてるとは思わなかったわ。血は争えないわね」
「やっぱりばれてたんだね、お母さんの器材勝手に使ってたの」
苦笑する名雪。悪戯を見つかった子供のような、そんな顔。
「祐一が協力してくれたからだよ、早くできたのは」
俺は協力なんてしてな・・・と思ったところで、一つの記憶に行き着く。名雪に頼まれ、あのジャムだと思っていた物を食べたこと。
俺は実は名雪に全く歯が立たない。あの上目使いの瞳に見つめられて「お願い」何て言われた日には断る術が無い。秋子さんのより赤みの強い名雪のNazo−Jamを俺は何度か食べた記憶がある。
拒絶反応とやらのおかげで大変な目に遭ったが。
「大変ね、祐一さんも」
目を閉じてしみじみと言う秋子さん。祐一は優しいからね、とか言う名雪。止めてくれ、照れるから。
「じゃあそろそろ始めようか、お母さん」
そう言って持っていたNazo−Jamを一気に飲み込む名雪。それを見た秋子さんも同じく一気に飲み込む。
・・・一体何が起こったんだ?俺の目には特に変化が見られなかった。実はただのジャムであれは脅しに過ぎなかったとか?そう思ったとき、不意に二人の髪が風に吹かれたようにざわつき始めた。
か・・・風なんて吹いてないのに・・・。そう思った俺は更なる信じられない光景を目にする。
「手がひかっ・・・!」
俺は大きな声を出しそうになった口を慌てて押さえた。今覗いている事がばれたら大変な事になる。
俺の本能がそう告げていた。
髪がざわめき、手が光る。これは確かに「究極」に間違いない。というかありえない。俺は夢を見ているんじゃないか?大体猫アレルギーで死んだりしないんじゃないか?
そんなことを思っていると、不意に名雪が消えた。ように見えた。次の瞬間、名雪は秋子さんの目の前にいて、バトルは再開していた。
「Jamビーム!」
名雪の手からビームが放たれる。ビーム?
「甘いわね名雪、Jamリフレクター!」
そう叫んだ秋子さんの前に見えない壁が出現し、名雪のビームを防ぐ。
・・・バタン
そっと扉を閉めて、俺はベッドに横になった。
「なかなか面白い夢だったな・・・」
そう言って、俺は目を閉じた。夢の中で寝るという事に少し変な感じがしたが、気にしない事にした。
俺は、すぐに眠りに落ちていった・・・。
「・・・いち」
ん・・・?
「・・・祐一」
誰かが俺を呼んでいる。もう少し寝かせてくれ・・・。
「起きないと、また乗っかっちゃうよ?」
好きにしてくれ。俺はもう少し寝たいんだ。
「えいっ」
どむっ!
「ぐはっ」
一発で目が覚めてしまった。しょうがない、起きるか・・・。
布団から出ると、名雪が怒った様な、あきれた様な顔をしていた。
「もう御飯だよ」
「よく寝たな、俺」
「寝すぎ」
「名雪に言われちゃおしまいだな」
くくく、と笑いながら言う。案の定、名雪はむーっとした顔で睨み付けてくる。全く怖くなく、むしろ可愛らしい。
ビーム出す格闘家よりもやっぱりこっちの方が名雪らしいよな。文句を言ってくる名雪の言葉を流しながら思った。
「あら祐一さん、随分とよく眠っていたようですね」
いつも通りニコニコしている秋子さん。やっぱり夢だな。あんな非常識なことある訳無いか。
「あれ?」
「どうしました?」
「いや、別に・・・」
いつもと夕食の雰囲気が違う。皿の上に蓋が乗ってたりしてちょっと高級感が出ている。
「あれ、そういえば真琴は?」
真琴がいないことに気付いた俺は辺りを見回しながら言う。
「真琴ならもう食べ終わって、ほら」
秋子さんの指差したほうを見ると、確かに真琴が背を向けて寝ていた。
「今眠ったところだから、起こさないでね」
別に起こす気なんて無い。それよりもまず夕食だ。
「それにしても何ですか?もしかして今日はフランス料理とか?」
ニコニコしながら俺を見ている二人。そんなに凄い物なのかと思いながら蓋を開けた。
パンとジャムだった。
色は、少しオレンジがかった赤。
「こ、これは・・・」
俺は固まった。あれは夢じゃなかったのか・・・?ということは・・・。
「真琴!」
立ち上がろうとしたが、秋子さんに押さえつけられてしまった。
「真琴は眠っていますから起こさないでくださいね」
顔は笑っている。声も笑っている。だが俺を押さえつけている力はとても女性のものとは思えない。
「ねえ、祐一・・・」
笑顔の名雪。満面の笑みで俺を地獄へと落とす言葉を告げた。
「覗くんなら声出しちゃ駄目だよ♪」
もう逃げられないと思った。凶悪なまでの笑顔を顔に貼り付けた名雪がジャムらしきものをスプーンですくって俺に食べさせようとしてくる。
「これをもっと改良すれば猫さんアレルギーが治せそうなんだよ」
「あ・・・うあ・・・」
あまりの恐怖と驚きに声も出ない。
「だからね、もっとこれを改良するんだよ。もっと・・・もっと・・・」
「あ、秋子さん・・・」
やっとのことで俺は秋子さんに助けを求めた。秋子さんは、俺にとどめを刺した・・・。
「私ももっと綺麗になれるように改良しようと思ってるの」
「ぎゃああああああああああ・・・」
「生きてるか?真琴・・・」
「うん、なんとか」
恐怖の人体実験を何とか耐え切った俺は真琴の部屋に来ていた。同じ恐怖を体験した者として今後の対策について真琴と会議を開くことにした。
「とりあえず、これでも飲んでリラックスして」
「ああ、サンキュ」
真琴が差し出したのはぶどうジュース。たまには良い事するなと思いつつ、一気に飲みほす。
「どう?祐一」
どうって言ったって普通のぶどうジュースじゃ・・・。
「ぐはぁっ!」
俺は再び絶叫し、倒れた。これもNazo−Jamか!
「まことぉ、お前もか・・・!」
ありったけの気持ちを込め、そう吐き出す。
「ごめんね、祐一。実験台にされないためには真琴も作らなきゃ駄目なの」
自分のしたことにためらいがあるのか、俯き、済まなそうに言う真琴。
「だから一度実験に協力することを条件に作り方を教えてもらったの・・・」
その言葉を最後に、俺は遂に意識を失った。
それからの日々は地獄だった。人を実験用マウスとしか見なくなった三人から逃げ回る日々。四日目には耐え切れずに家を飛び出した。
「・・・うそだろ?相沢・・・」
「こんな作り話ができるか」
俺は水瀬家を飛び出し、北川の家に逃げ込んだ。俺が家から出てきた理由をしつこく聞いてくるのでありのままを話した。さすがに信じられないといった顔をする。
「事実は小説よりも奇なりってヤツだな」
「何だ、信じてくれるのか?」
「そんな真剣な顔で言われちゃ、信じない訳にはいかないだろ」
「じゃあ、ここに置いてくれるのか?」
北川は、しょうがねえなあをいう顔をした。
「親友だからな」
「サンキュ」
俺は精一杯の感謝を込めて言った。
「玄関で長々と話しちまったな、あが・・・」
口をパクパクさせている北川。一体なにやってんだ?
「あ・・あいざわ・・・」
しきりに俺の後ろ、つまり玄関を指差してガタガタ震えている。
ったく、ライオンでもいるのか?そう思いながら、俺は後ろを振り返った。
「「「みーつけた♪」」」
ライオンなんか目じゃなかった。Nazo−Jamを持った三人が悪魔のような笑みを浮かべ、立っていた。
「あ、相沢、迎えが来たみたいだから帰ってくれ。な?」
そう言って北川は立ち尽くしている俺を外へ突き飛ばした。
「う、裏切者ぉぉぉぉぉぉぉぉぉ・・・」
「すまん、相沢。俺はまだ死にたくないんだ・・・」
ものすごい勢いで扉を閉められた。結果、俺は元の生活に戻ることになる。
「嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」