「魔理沙が……いなくなった?」

 息を切らせて神社に飛び込んできたアリスの言葉に、霊夢は僅かに眉を動かした。

「ここじゃないかと思って。魔理沙、来てない?」
「来てないわよ。それに、家出するならこんな分かりやすい所になんて来るわけ無いでしょ?」

 肩で息をするアリスとは対照的に、霊夢は落ち着き払っていた。
 まるでこうなることを分かっていたかのような、悟っているとさえ言えそうな落ち着き振りであった。

「それはそうだけど……! じゃあ魔理沙が行きそうな所知らない!? 魔理沙、出歩けるような体じゃないのよ!」
「知らないわ」
「霊夢!」

 アリスは、霊夢の態度が気に食わなかった。
 魔理沙の失踪は、アリスにとってはこれ以上無い重大な問題であった。それに髪の毛ほどの反応も示さない霊夢が、癪で仕方が無かった。

「……止めてくれないかしら? そんな妖気を発せられても、知らないものは知らないわ」

 冷静さを欠いているアリスは全く気付かなかったが、霊夢は全身にうっすらと汗をかいていた。アリスの剣幕に気圧されたからではなく――

「分かったらさっさと他を当たりなさい。ここに居ても魔理沙は見つかりはしないわよ」
「っ……分かったわよ」

 霊夢をキッと睨み付け、アリスは霊夢に背を向けた。
 その背中は色々な感情で溢れていて、どれだけ魔理沙のことを心配しているかを言葉より分かりやすく語っていた。

「ねえ、アリス」
「……何よ」
「どうしてそんなに魔理沙のこと気にかけるの? 魔理沙のこと、嫌いなんでしょ?」
「嫌いよ。魔法使いの癖に何もかもが大雑把だし、蒐集家の癖に手に入れたものはぞんざいに扱うし」

 アリスの体が僅かに震えているのを、霊夢は見逃さなかった。

「まだ、色々と決着がついてないの。勝手に死ぬなんて、絶対に許さないんだから」

 それでも、アリスの声に変化は感じられなくて。
 つくづく意地っ張りな女。そう思った。

「あなたも、まるで人間みたいね」
「え?」
「パチュリーも、レミリアもフランドールも。人間とは程遠い存在なのに、すぐに熱くなって、すぐに涙を流して。随分変わったわ、あなたたち。姿形は全然変わらないのにね」

 霊夢が何を考えているのか、アリスに分かるはずもない。霊夢は――違いすぎるのだ。
 人間であるはずなのに、少しも人間らしくない。
 いくら交流を重ねても、年老い力衰えても。霊夢は少しも変わらなかった。

「あなたは変わらないわね。……姿形以外は」

 簡潔な言葉を残し、アリスは飛び立った。
 その声には、ほんの少しだけ哀れみが含まれていた。

「変わらないわよ。だって……私は博麗だもの」

 後に残されたのは、一人の老婆。
 数十年前には気にも留めなかった妖気に押され汗をかき、白く染まった細い髪をしわがれた手で梳る博麗霊夢のみであった。







「……」

 霊夢は空を眺めていた。
 ほんの僅かに雲が見られるものの、快晴と言って差し支えない極上の青空。
 空は、時と共に緩やかに姿を変える。風に影響されて、太陽に影響されて、雲に、月に、星に。
 それは生き物の心も同じ。誰かに、何かに影響されて、ゆるやかに、あるいは急激にその色を変える。
 そこに例外は無い。例えどんな変わり者であろうと、何かに影響されて違う色に染まっていく。

「魔理沙が逃げ出した、か」

 魔理沙が重い病気を患っているという噂を耳にしたのは二ヶ月ほど前。
 魔理沙を慕う様々な人妖が交代で魔理沙の看病をすると聞いたのが一ヶ月ほど前。
 おそらくではあるが、魔理沙はもう長くない。それどころか、わざわざ自宅を抜け出して姿を消すということは――

「昔から猫みたいだったものね、魔理沙は」

 魔理沙が自ら看病を頼んだとは到底考えられない。強引に霧雨亭に押しかけて看病をしていたと考えて間違いない。
 目を閉じれば、すぐにその光景が目に浮かぶ。
 アリスは、魔理沙とずっと口論を続けていただろう。
 パチュリーは、分厚い本を読みつつ細かな動作までよく見ていただろう。
 レミリアは、フランドールを押さえるのに手を焼いていただろう。
 咲夜は、妖夢は、藍は――。
 霊夢は、そこには居ない。断ったのだ。一ヶ月ほど前に、「面倒くさい」と、いかにも霊夢らしい言葉で。

 それきり、霊夢は誰とも会わなかった。誰もが魔理沙の看病に追われていたから、神社に来る暇など無かったのだ。
 その間、霊夢は一人。誰とも会わず、誰の声も聞かず、一人庭を掃き、茶をすする。
 その間、霊夢は独り。

 否。
 博麗霊夢は、気が付いた時からずっと独りだった。
 気が付いたら、妖を調伏する術を体が覚えていた。
 気が付いたら、心を同じ色に塗りつぶしていた。少しでも色が変わる度に、親の仇の様に自らの筆で塗りつぶしていた。
 気が付いたら、自他共にそれが当然だと思うようになっていた。
 どんなに上塗りしても思い込みに過ぎないと気付いた時には、博麗の規律が霊夢を絡め取っていた。

 規律はたった一つ。
 何に対しても中庸であれ。
 すなわち、

 何かに好意を持って、それを好きになってはいけない。
 何かに嫌悪を抱いて、それを嫌いになってはいけない。

 そんなことは不可能に決まっている。
 生き物は、絶えず外の何かに想いを抱きそれに従って行動するように出来ているからだ。理性を持った人間なら尚更である。
 ならば、と霊夢は考えた。
 人間でなくなればいい。生き物でなくなってしまえばいい。面倒が起これば解決し、機会があれば宴会を開き、誰かが来れば相手をし、誰も来なければ縁側で茶をすする。
 そういう博麗霊夢という名のシステムになってしまえばいい。
 幸か不幸か、何故持っているのかも霊夢には分からないが――霊夢は自らの心を塗りつぶすための筆を持っていた。

 重ね重ねて、霊夢は博麗という色で心を塗りつぶした。
 魔理沙が楽しそうな顔でちょっかいを出しに来る度に、心の中の筆がフル稼働した。
 レミリアが体に似合わない艶やかな顔で迫って来る度に、心の中の筆がフル稼働した。
 誰が来ても、何があっても、霊夢の筆は擦り切れんばかりの勢いで心を同じ色で塗り潰していった。
 だから、どれだけ時間が経っても霊夢は変わらなかった。誰の目にも、そう見えた。

「ちょっとだけ羨ましいわ、魔理沙」

 自嘲気味に呟く。
 博麗の規律に縛られ、博麗の巫女としてがんじがらめに生きた霊夢。
 自らの意志で実家を飛び出し、人間として伸び伸びと生きた魔理沙。
 霊夢は、自分の運命に逆らえなかった。逆らおうともしなかった。自分の意思を持っていない人形と同じだった。
 魔理沙は、運命を自ら切り開いた。他人の助けを借りつつ、確固たる意志を持って。頭のてっぺんから足の先まで、どこまでも人間だった。

 一際強い風が吹いた。それに影響されて、雲が流れていく。空が、少しばかり形を変えた。
 霊夢の心にも、一陣の風が吹き抜けていた。魔理沙が、一人生涯を終えようとしているという事実。それは少なからず霊夢に影響を与え、心の形を変化させていた。

「…………」

 霊夢は無言でそれを塗り潰そうとし、

「ま、最後くらいいいか」

 心の筆を放り投げた。

「魔理沙が最後に選びそうな所、か。見当もつかないけど……。適当に飛んでれば見つかるかしら」

 音も立てずに、ふわりと浮いた。
 空を飛ぶ程度の能力。霊夢を霊夢たらしめる、存在する全てから浮くための能力である。しかし、この能力は後天的なもの。霊夢が生まれつき持っていたのは、妖を調伏するための才――霊気を操る程度の能力だけ。
 常に心を塗りつぶし続けることで、霊夢は何事にも動じない心を手に入れた。そんな霊夢を見た誰かが言ったのだ。
 霊夢は、まるで空を飛んでいるようだと。
 いつしか、それは霊夢のトレードマークになった。
 霊夢自身気付かなかった。そんな能力など存在していないということに。その影で、塗り潰され続けた心が悲鳴を上げていることにさえ気付かなかった。
 全てから浮いてしまった霊夢は、自分自身にさえ関心を持つことが出来なかったから。自身の苦しみも、筆でグリグリと塗り潰し続けていたのだ。







 霊夢は、普段では考えられない程の速度で空を飛んでいた。何の当ても無く、何も考えることなく。
 ただ、何となく確信していた。自分の勘はよく当たる。だから、きっと魔理沙を見つけられる。

「ほら、ね」

 誰も寄り付かないような寂れた小高い丘の上。白黒の魔女服が、木にもたれかかっているのが見えた。


「こんな所で何してるのよ、魔理沙」

 音も立てずに着地。そのまま、何事も無いかのように声をかける。

「誰っ……! なんだ、霊夢か」

 閉じていた目をうっすらと開き、魔理沙は穏やかに笑ってみせた。

「アリスがうちに駆け込んできてね。心配してたわよ」
「あー、アリスには悪いことしちまったかもなぁ」

 視線を空に向け、ばつが悪そうに苦笑する。

「そう思うなら、さっさと家に戻りなさ」
「私はここで死ぬんだよ」

 霊夢の言葉を、魔理沙ははっきりとした声で遮った。

「蓬莱の薬でも飲まない限り、私はもう保たない。自分の体なんだ、自分が一番よく分かってる」
「はぁ……やっぱり。弱いところを他人に見せるのがそんなに嫌なの?」
「どうだろうな」

 おどけた調子で言葉をはぐらかし、それから表情を引き締める。

「私はここで死ぬんだよ。霊夢、お前に魔法をかけてからな」
「え?」

 魔理沙の言葉が、霊夢にはさっぱり分からなかった。
 でも、本気なんだということは真剣すぎる目から伝わってきた。

「何を訳の分からないことを言ってるのよ。そんな体じゃ、もう魔法なんて使えないでしょ?」
「使えるぜ」
「それ以前に、こんな辺鄙な所に私が来る保障なんてどこにも」
「来たじゃないか。保障なんてどうでもいい」

 霊夢の言葉を予測していたかのように、魔理沙は即答を繰り返す。
 自分の行動が全て読まれているような妙な感じがして、霊夢は少しばかり心を波立たせた。

「じゃあ、その魔法とやらを見せてもらおうじゃないの」
「なあ霊夢。私たちが最初に会ったのっていつだったっけ?」
「は……?」
「私たちが最初に神社で茶を飲んだのっていつだったっけ?」
「……何言ってるのよ」
「私が最初に霊夢に勝ったのっていつだったっけ?」
「だから、何を……!」

 波が大きくなっていく。霊夢が必死に押さえ込もうとしても、心は少しも静まりはしない。

「私は全部覚えてるぜ。私にとって、お前は目標だったから。ライバルだったから。親友だったからな」
「別に魔理沙がどう思っても、私は魔理沙のことなんか別に――」
「何とも思ってない。そう思ってるだろうな」
「……そうよ。よく分かってるじゃない」
「じゃあさ、お前はお前自身のこと、どう思ってる?」
「私自身の、こと……?」
「そう、他の誰でもない。霊夢、お前のことだ」
「……別に。何とも思ってな」
「嘘だ」

 強い口調で、霊夢の言葉を遮る。その言葉が、瞳が、霊夢の心をかき回していく。

「自分のことを何とも思えないやつは人間じゃない。いや、生き物ですらない。好きにしろ嫌いにしろ、自分をしっかり持ってないと足場が定まらないからな。霊夢、お前はどうなんだ? 生きてないのか?」
「魔理沙が言うことが正しいなら、私は生きてないんでしょうね」

 何を馬鹿なことを言ってるんだと言わんばかりに、霊夢は口元を歪めて見せた。
 動揺を抑えようと躍起になっている霊夢の心の内が、魔理沙には自分のことのようにはっきりと感じられた。

「嘘だ」

 いつの間にか、魔理沙は霊夢を睨みつけていた。
 魔理沙は怒っていた。何に対してか、霊夢には分からなかった。分かろうとしなかった。

「どうして、ここに来たんだ?」
「……何となくよ」
「あの面倒くさがりのお前がか? 何処に居るかも分からない、何の関心も無い死にかけを探しにこんな所までわざわざ来たのか?」
「……暇だったのよ。悪い?」
「お前がこんな時間に来ようと思ったらどれだけ急がなきゃいけないか、お前本当に分かってるのか?」
「え?」
「全力で私の魔力を辿って、全力で飛んで来なきゃこの時間にこの場所には辿り着けない。そういう場所なんだぜ、ここは」
「そっ……そんなこと魔理沙の常識で断言されても困るんだけど。私はただ何も考えずに適当に飛んでただけだもの」

 魔理沙からあからさまに目を逸らし、霊夢は鼻で笑った。
 霊夢は気付いていない。自らの巫女服が、汗でぐっしょりと濡れていることに。
 普通の人間なら絶対に気付く汗の量なのに、霊夢は気付かなかった。心が、それに気付くことを拒否していた。

「無意識のうちに魔力を辿り、無意識のうちにここまで飛んできた。全力でな。早く来ないと、私が死んでしまうと思ったから。違うか?」
「だから違うって言ってるでしょ! 何よさっきからわけの分からないことばっかり――」
「お前、汗ぐっしょりだぞ」
「え……? あれ、どうして……?」

 心底不思議そうに、霊夢は自らの巫女服を見回す。本当に気付いていなかったのだから当然の反応ではあるのだが……。
 それは例えようも無く滑稽であった。
 笑って済ませられるような姿ではない。絶対に放っておけない、何とかして気付かせてやりたい。
 誰もがそう思うほど、霊夢の姿は見るに耐えないものであった。

「だから、私のこと心配して急いで来たからだろ?」
「ち、違う! そんなことないわ、私は誰の心配もしないもの、だって、だって――」
「もう、自分に嘘をつくのは止めろよ霊夢」
「嘘……?」

 唖然とした様子の霊夢を見つめて、魔理沙はやれやれとため息をついた。

「やっぱり、自分でも気付いてなかったのか。そりゃそうだよな、ずっと独りで居ることに耐えられる人間なんているわけないんだから」
「…………」
「お前は何に対しても中庸じゃなきゃいけなかった。だから、心が揺れそうになる度に自分に嘘をついて、自分はそういう人間なんだと思い込んできた。大したもんだぜ」

 俯いてしまった霊夢がどんな表情をしているのか、魔理沙には見えなかった。何を考えているかも、全然分からなかった。
 ずっと一緒に居ても、霊夢が自分を殺していること以外は何一つとして分からなかった。本当に、大した精神力だと思った。

「もう、無理なんてしなくてもいいんだ霊夢。博麗に縛られる必要なんて無い」
「何も知らないくせに、何偉そうな口聞いてるのよ魔理沙……! 博麗の名がどんな意味を持つのか――」
「近いうちに、新しい博麗の巫女が神社に来るそうだ。お前はお払い箱さ」
「え……?」
「だから、お前はもう規律に縛られなくていい。一人の人間として、怒って、笑って、泣いていいんだ」
「どうして……? どうして魔理沙がそんなことを……!」
「聞いたんだよ。誰とは言えないけどな」
「聞い、た? う、嘘よそんなの! だって、私以外に博麗のことを知ってる人なんて――」
「じゃあ、誰がお前にそれを教えたんだよ」
「あっ――」

 考えもしなかった点をつかれ、霊夢は動揺を隠せない。本当に珍しい、初めて見る霊夢の姿。
 魔理沙の記憶の中には、霊夢が動揺している姿は無かった。全てが他人事だった霊夢が、動揺などする筈が無いからだ。
 そしてもう一つ、魔理沙が見たことの無い姿が――

「霊夢、家に来ないか?」
「魔理沙の、家に?」
「もう神社に住む必要は無いし、そんな服だって着る必要は無いんだ。アリスに頼めば、きっと素敵な服を作ってくれる」
「で、でも、そんなの悪いわよ」
「はぁ。ここまできて遠慮なんてするなよ霊夢」

 ニカッと、白い歯を見せて笑う。

「私たち、親友だろ?」
「――――――ッ!!」

 涙腺が、突如として生まれた瞬間以来の活動を始める。
 自らの視界が滲んできたことを自覚した霊夢は、痛々しいほどに強く目をこすった。

「な……何独りよがりなこと言ってるのよ! 魔理沙のことなんて何とも思ってないんだから、勝手に親友にしないでくれる!?」
「あー、そりゃ悪かった。確かに勝手にこんなこと言っちゃ悪いよな」

 涙目で睨んでくる霊夢に苦笑を返す。

「じゃあ、言葉を変えるぜ」

 ふっと軽く息一つ。

「ずっと、お前のことが好きだった。多分、初めて会った時から」
「なっ、なっ……!?」
「お、おい、そんなに顔赤くするなって。別に変な意味じゃないぜ」

 霊夢が示した予想外に大きな反応は、魔理沙の顔までも林檎のように真っ赤に染めていた。
 魔理沙は赤くなった顔を隠そうともせず、霊夢の目を真正面から捉えて言葉を続けていく。

「最初のうちは、ただ面白いやつだと思った。でもそれからしばらくして、お前は私たちのことを完璧に拒絶してるんだって気が付いた」
「そうよ! 私は誰とも仲良くなりたくなんてない……!」

 大げさに手を振って、無駄に大きな声で必死に弁解している様子がどれだけ普段と違っているか、霊夢は分かっているのだろうか。
 魔理沙は何も言わない。それを指摘すれば、持ち前の強すぎる意思で自分を抑えてしまうだろうから。

「お前は誰も彼も拒絶した。それこそ徹底的にな。でも、お前は私たちが押しかけることには文句すら言わなかった。おかしくないか? 私たちのことが本当に嫌いなら、顔も合わせたくない筈だろ?」
「それはっ……あんたたちがっ……! 勝手に、勝手に来るからよ!」
「違うな。本当に顔を合わせたくないのなら、神社を結界で覆ってしまえばいい。お前なら出来るだろ? 博麗の巫女を務められる力と馬鹿みたいな意思の強さを持ってるお前が、それくらい出来ない訳が無い」

 魔理沙の言葉は、何一つとして的を外していない。
 誰一人として破れない結界を構築することは決して不可能ではなかった。幻想郷の秩序を保つ博麗の力と常軌を逸した霊力を持つ霊夢の力とを合わせれば、神社を完璧な孤立空間にする結界を作ることは可能であった。

「お前がそれをしなかったのは、心のどこかで繋がりを求めてたからだ。だから私たちに来るなとは一度も言わなかったし、結界を張ることもしなかった」
「違う、違う、違う! そんなのでたらめよ、勝手なことばかり言わないで!」

 耳を塞ぐ様に頭を抱えて、何度も何度も首を振る。その表情は酷く辛そうで、物理的な痛みに苦しんでいるようだ。
 魔理沙の胸がズキズキと痛む。霊夢とシンクロして一緒に苦しんでいるような、そんな痛みを感じていた。

「霊夢、私はお前を助けたいんだ。一人で苦しんでいるお前を見てられないんだ。お前のことが好きだから。お前の苦しみが手に取るように分かるから」
「私はあんたのことなんて嫌いよ! あんたの考えてることなんてちっとも分からない、そんなあんたに助けてもらいたいなんて――」
「なあ霊夢。お前はどうしてここに来たんだ?」

 荒れ狂う霊夢とは対照的に、魔理沙は落ち着き払っていた。瞳には凛とした強さが感じられる。

「……暇だったから、ってさっき言わなかった? あんたのことなんて別に何とも思ってないけど付き合いだけは長かったし、最後くらい一緒に居てあげてもいいかなって思っただけよ」

 意図の見えない質問に呆気に取られながら、霊夢は答える。

「誰が、死ぬなんて言ったんだ?」
「誰って……アリスがあんたは出歩けるような体じゃないって……あれ……え……?」
「言ってないよな、誰も。アリスは絶対そんなこと言わないぜ」

 アリスは魔理沙が危篤状態にあるとは一言も言っていない。
 出歩けない体と今にも死にそうな体はイコールで結ばれない。
 そして何より、普通の人間は一人で死のうなんて思いはしない。

「重病だった私が誰にも言わずに部屋を抜け出した。アリスはそう言っただけの筈だぜ。なのに、どうして私がここで死ぬつもりだなんて分かるんだ?」
「だって、あんたは昔からそうじゃない。実験に失敗して怪我をした時、誰にも言わなかった。変なキノコを食べて食中毒になっても、一人で治したじゃない」
「そうだな、私はそういう人間だ。お前の言うことは間違っちゃいないぜ。でもな、問題はそこじゃないんだよ霊夢」
「え……?」
「私が実験に失敗したことも、キノコを食べたことも、私は誰にも話してないぜ。食べ物とか薬とかを持って、フラッと家に来たお前以外にはな」
「――――――!!」

 霊夢の顔が蒼白になる。必死に作り上げてきた自分と本心との矛盾を突きつけられたら、もう口先の誤魔化しは通用しない。

「私のことなんて何も分からないと言いながら、ここで私が死ぬつもりだと確信していた。私のことなんて嫌いだなんて言いながら、わざわざ家まで見舞いに来てくれた。どっちが本当のお前だ?」
「…………」
「まだシラを切るって言うなら――」
「……ずるいわよ」

 地面に視線を落として、ポツリと言う。

「そんなこと言われたら、私、私――」
「ずるいのは私だけど、悪いのはお前だぜ」
「え……?」
「私がずっと心配してたのも気付かないで、一人で抱えて苦しみやがって。一言でも言ってくれれば、規律なんて私がぶち破ってやったのに。万が一それが出来なくても、一緒に背負ってやれたのに」

 ポタポタと、霊夢の足元に水滴が滴り落ちる。
 どんなに苦しくても、どんなに悲しくても。誰にも、霊夢自身にさえも決して見せなかった、涙。
 一度泣いてしまったら、もう頑張れないと思った。だから、一人きりの時も絶対に泣けなかった。
 その涙が、雨のように流れ落ちていた。
 挫けてしまったからではない。諦めてしまったからでもない。
 嬉しかったから。自分は独りではないのだと、かけがえの無い親友が教えてくれたから。

 長く長く溜め込んできた涙は、留まることを知らない。
 後から後から次々に溢れては、顔を、巫女服を、地面を濡らしていく。
 そして、心に塗り重ねた色を溶かし、流していく。

「私……もう、いいの……? 泣いてもいいの……?、ねぇ、魔理沙ぁ……!」
「ああ。お前は人間なんだから、泣きたい時は泣けばいい。胸ならいくらでも貸してやるぜ。……ほら」

 木にもたれかかったまま、魔理沙は両腕を広げる。
 その刹那、イノシシのような勢いで霊夢が飛び込んできた。
 衝撃に僅かに顔を顰めながら、魔理沙は両腕を霊夢の背中に回した。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「…………」

 笑っている姿は誰もが知っていた。怒っている姿も知っていた。
 泣いている姿だけは、誰も知らなかった。

 でも、それは過去のこと。
 今日は、霊夢が心の筆を捨て、全てを洗い流した日。溢れる涙は、その証だった。
 魔理沙は、泣き続ける霊夢の姿を深く心に刻み込んだ。







「はぁ……はぁ……」
「落ち着いたか?」

 背中をさすりながら、魔理沙は声をかける。

「……おかげ様で。かっこ悪いところ見せちゃったわね」

 顔を上げた霊夢は、決まりが悪そうに苦笑いを浮かべていた。

「人間なんてそんなもんだぜ」
「そうね」

 立ち上がり、ぐぐぐっと体を伸ばす。泣き腫らした顔は見栄えがいいとは言えないものの、浮かべる笑顔は美しかった。

「そういえば、魔理沙の家にって件だけど」
「ああ、いつでも構わないぜ」
「やっぱり止めることにするわ。新しく来る子を独りには出来ないもの」
「……残念だぜ」

 嬉しそうに魔理沙は言う。霊夢ならそう言ってくれるだろうと信じていた。

「本当にそう思うなら、もう少し残念そうな顔しなさいよ」
「そうだな。あっはっはっはっは――」
「何故笑う」
「はははは……ゴホッ、ゲホッ!」
「ま、魔理沙!」

 突如苦しそうに咳き込みだした魔理沙に、霊夢は慌てて駆け寄る。

「あー、どうやらお別れ……みたいだな……ガハッ!」
「な、何言ってるのよ魔理沙! そんな、急に――」
「はぁ……はぁ……! 急じゃ、無いぜ。最初に、言っただろ? ゲホッ、ゲホッ!」

『私はここで死ぬんだよ。霊夢、お前に魔法をかけてからな』
 魔理沙の言葉を思い出す。
 霊夢は血の気が引くのを自覚しながら、それを無理矢理捻じ伏せて魔理沙を揺さぶる。

「ちょっと、何馬鹿なこと言ってるのよ! 私、魔法なんてかかってないわよ!? 魔法をかけるまでは死なないんでしょ、だから早く体を休めて魔法を――」
「悪いな。魔法はもう品切れだぜ」
「なら尚更よ! 早く休んで、体を治して! どんな魔法でもかかってあげるから、文句も言わないから!!」

 収まったはずの涙をボロボロとこぼしながら、霊夢は魔理沙を担ぎ上げる。
 そのまま一路、霧雨亭へ――

「もう、お前は魔法にかかってるんだよ。気が付かないか?」

 飛び立とうとした霊夢は、魔理沙の一言に体を硬直させた。

「私は、別に何も――」
「私が使ったのは、霊夢が素直になる魔法。それだけ派手に泣いてるんだ、かかってないとは言わせないぜ?」
「あ、あ、魔理――」
「はははっ、お前が、泣いてる所なんて、誰も見たこと、無いからな。いい土産に、なりそうだぜ」
「な、何言ってるのよ魔理沙! そんなのじゃなくて、もっといい物いっぱいあげるから! 魔理沙が欲しい物なら何だってあげるから! だから死んじゃ駄目、死なないでよ魔理沙!!」
「ゲホッ、何だって、か。楽しみ……だぜ。ゲホッゲホッ、棚の奥の玉露とか……神社に伝わる変な物とか。いっぱい、いっぱい、持っていってやるからな」
「うん、うん! あげる、何だってあげる! だから死なないで、しっかりしてよ魔理沙!!」
「ああ、楽しみ…………だ、ぜ………………」

 目が、ゆっくりと閉じていく。

「魔理沙!! 魔理沙!!!!」

 全身から力が抜け、担いだ体がどんどん重く――

「目を開けて、いかないで、魔理沙ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」

 霊夢の絶叫が、辺りの空気を盛大に震わせた。











































「呼んだか?」



「…………?」
「だーかーら、呼んだかって聞いてるんだが?」
「え? う、うん。呼んだわ」
「そうだよな。空耳じゃなくて良かったぜ。まだまだボケるわけにはいかないからな」

 とん、と軽快な音を立てて着地。そのまま一本足でくるりと回転してみせる。

「あの、その、魔理沙?」
「どうした?」
「その……大丈夫なの?」
「一時期ちょっとやばかったんだけどな。今じゃすっかり健康体だぜ」

 右腕を折って、ぐぐぐっと力を込める。力こぶが出たかどうかは定かではない。

「えっと、その……え……?」
「……ぷっ」

 訳も分からずオロオロと手を彷徨わせる霊夢を見つめ続けた魔理沙は、耐え切れずに噴き出した。

「あっははははははははははははははははははははははははははははははは!!! 何だよ霊夢その顔! 傑作だぜ、傑作すぎて笑い死ぬぜ! あははははははは!」
「え……? ちょ、魔理……沙?」
「おーいみんな、出てきていいぜ! あはははははははははははははははは!」
「みんなって、え?」

 腹を抱えながら魔理沙は霊夢の後ろを指差す。霊夢は導かれるままに後ろを振り返り――

「…………………」

 思考を完全に停止させた。

「それにしても、霊夢があんなに泣くなんてねぇ」(咲夜)
「今でも信じられないわね、くくくくく」(レミリア)
「いやいや、魔理沙の三文芝居も大したものよ。あんなわざとらしい咳なんてして、いつバレないか冷や冷やだったわよ」(永琳)

 人、人、人、人、人、人、人、人。
 魔理沙の関係者――つまりは霊夢の知り合いがこれでもかと言わんばかりに茂みから顔を出し、ニヤニヤと笑っていた。

「えーっ、と」
「みんな、お前のこと心配してたんだぜ? 二つ返事で手伝ってくれた」
「霊夢の本当の気持ちに気付いていたのは魔理沙だけだった。大したものよ」(幽々子)
「照れるぜ」
「魔理沙、病気は?」
「二週間ほど前に完治したぜ」
「アリスは?」
「もちろん芝居。結構練習してたからな、真に迫ってたんじゃないか?」
「新しい博麗の巫女の件は?」
「それは本当。頑張って世話してやれよ、お・ば・あ・ちゃん」
「…………」
「ああ、それと今日は神社で宴会だぜ。神社の物は何でもくれるんだったよな?」
「……あんたたちの気持ち、よく分かったわ」

 にっこりと笑い、胸元から一枚の札を取り出す。
 魔理沙はそれを見て、一瞬で顔を強張らせた。

「あー、霊夢? それは今のお前には堪えるんじゃないか?」
「大丈夫大丈夫。色々と究極奥義だもの」
「ちっ! こうならったら逃げるしか――」
「逃げる? 何処にかしら?」

 ハッとした魔理沙が周囲を見渡すと、既に周りは色を失っていた。
 霊夢と魔理沙とそれ以外とを取り囲む強大な結界が一瞬で構築されていた。

「おいパチュリー、これどうにかならないのか!?」
「無理ね、力が強すぎるもの。この調子じゃ、新しい巫女なんて当分必要無さそうよ」
「フ、フラン!」
「私に壊せないものは無いって思ってたんだけど、そうでもないみたい」
「……萃香?」
「一度本気の霊夢を見てみたかったのよね」
「あー……」
「さあ、魔理沙とその他大勢。お祈りは済んだかしら?」

 右手を掲げて宙に浮く。馬鹿げた霊気が急速に右腕に集まる。
 両腕を広げて目を閉じる。霊気は札の形を為し、霊夢を守るように周囲に集まり渦となり――

「夢想天生」

 人気の無い丘は、一瞬のうちに地獄絵図をこの世に体現した。













 鳥居を境に、老婆と少女が向かい合っていた。
 共に奇抜な紅白の衣装に身を包み、顔にほんの僅かな緊張感を貼り付けている。

「あなたが、新しい巫女?」
「そうだよ、霊夢おばあちゃん」
「おばあちゃん、は余計よ」
「えっと……じゃあ、何て呼べば?」

 霊夢は人差し指を口に当て、しばし地面を睨む。
 やがて視線を少女に戻し、素っ気無い表情で言った。

「霊夢でいいわ。それ以外の呼び名はどうもしっくり来ないの」
「うん。分かった」

 少女はにっこりと笑い、大きく息を吸い込んだ。

「博麗たる者!」

 空に向かって咆哮。
 それを聞いて、霊夢はあからさまに不快そうな顔をした。
 その行動に、嫌な既視感を感じざるをえないからだ。
 自らを鼓舞するため――正確には騙し続けるため――数え切れないほど、霊夢は規律を空に叫び続けていた。

「幻想郷の秩序を司る者としての自覚を持ち――」

 絶対に、自分と同じ思いはさせない。
 霊夢は改めてそう決意し、爪が食い込むほどに強く拳を握る。

「全ての住民と力を合わせ、平和を乱す者を調伏すべし!」
「…………え?」

 自分の耳を疑う。これでは、まるで反対ではないか。

「ちょっと、あんた何言ってんの?」
「何って、博麗の規律。忘れないように、時々大声で叫びなさいって、……えっと、えっと――」

 少女は首をかしげて腕を組み、頭の中を懸命に探っているようだ。
 その間も、霊夢の疑念は止まらない。

「顔も声も忘れちゃったんだけど、私のお師匠様が言ってた!」
「……」

 顔も声も思い出せない。それは霊夢も同じだった。
 まるで自分の記憶が操作されたかのように、その部分だけがスパッと消失しているのだ。

「ねえ、規律、もう一回言ってみてくれないかしら?」
「え? 別にいいけど。何なら、おばあちゃんも一緒に言う?」
「その呼び方は止めろって言ってるでしょ。私は、あんたが言う所を見たいのよ」
「ふーん」

 大した疑問を持つことも無く、少女は再び大きく息を吸い込む。
 霊夢は、少女の一挙一動を見逃すまいと、全ての集中力を駆使して少女を見つめる。

「博麗たる者、幻想郷の秩序を司る者としての自覚を持ち、全ての住民と力を合わせ、平和を乱す者を調伏すべし!」
「…………」

 ため息、一つ。
 霊夢の表情は、自然と穏やかなものに変わっていった。
 少女は嘘などついていない。そもそも、嘘をつく必要が全く無い。

 何故かは分からないものの、規律は変わった。それも、とても良い方向に。
 どうせなら自分の時から――そんなことを思わなくは無いが、過ぎたことを気にしても仕方が無い。
 それよりも、今は無邪気な目の前の少女の助けになることだけを考えよう。

「じゃあ、私が最初の協力者ね。ビシビシ鍛えてあげるから、覚悟しなさいよ」
「えー、勘弁してよおばあちゃん」
「……ふふふ」

 両手を胸の前で交差させる。手には、冗談のような数の針。

「ちょっ、おばあ――」

 口元は、僅かに引き攣って。

「人をババアにするなって言ってるでしょうがーっ!」
「うわあ、ちょっと待って、待ってってばー!」

 その表情は、花が咲いたように輝いていた。







「ほら。これで満足なんでしょ?」
「ああ。助かるぜ」

 上空に、二つの人影。

「一つ借りが出来たな。そのうち返しに行くぜ」
「そう? 別に貸しだなんて思っていないけど、くれるものは貰っておくわ」
「……なあ」
「何?」
「ありがとう」
「言葉なんていらないわ。さっさと借りを返してくれればそれで十分よ」

 一人が消える。突如として開いた空間の裂け目に、自ら身を投じたのだ。

「霊夢そっくりだなあいつ。いや、霊夢があいつに似てるのか?」

 考えてみればそれは当然のこと。人は親の背中を見て育つ生き物である。それが生みの親ではなく育ての親でも、違いは全く無い。

「ってことは、だ。放っておいたらあの子も霊夢みたいになっちまうのか?」

 その光景を思い浮かべて、くくくと笑う。
 かぶっていた帽子をより深くかぶりなおし、掴んでいた箒の柄をぎゅっと握り締め――

「そんなことは私がさせん! 霧雨魔理沙、吶喊だぜ!」

 顔には満面の笑み。これからの日々が楽しみで楽しみで仕方が無い、子供のような笑みだった。


元々はまったりスレでの「涙が似合うキャラ・シーン」というお題に「霊夢が独りじゃないと言われたとき」と投票したくて書いたもの。
創想話に投稿する際にタイトルに散々迷い、結局花言葉から選んでみたのですが作中に入れ忘れたのは痛恨のミス。
実は、当初の予定では魔理沙は本当に死んでしまうはずでした。
それが覆ったのは死に掛けてるはずの魔理沙がスラスラと言葉を紡いだり急に咳き込みだすのが不自然で仕方なかったから。
結果的にそれは伏線として働き、上々の着地点を提供してくれたわけですが……素直に喜べないなぁ(苦笑)