それなりの大学を卒業し、まあ一流と呼ばれる会社に就職してからそろそろ二年が経っていた。
あまりに長い通勤時間にも金を稼ぐ以上の意味合いを見出せない仕事にも、ようやく慣れてきた頃だ。
「ったく。こんな時間まで人を無駄話に付き合わせるなっての」
その日は少し仕事が遅くなったこともあり、電車を降りた時にはもう黄昏時を僅かに回っていた。
西の方角がほんの少しだけ白んでいるものの、空はほぼ一面が濃紺に染まっている。もう間も無く、鴉のような黒へと変化していくのだろう。
ふとその様をじっくり見ようと思い立って、いつも通る大通りのすぐ脇の小道へと進路を向けた。
「……マジかよ」
以前は当然のようにその場を支配していた黒が、等間隔に並べられた街灯により駆逐されていた。
呆然と立ち尽くし、知らず目を細めていた。
街灯が眩しすぎるせいで、まだ僅かに青を残しているはずの空は黒にしか見えない。
唯一の光源だったはずの星と月はあまりにも弱々しく、光源としての役目どころか鑑賞対象としての魅力さえ失っていた。
嘆息して、大通りへと歩き出す。
そこは正に光の世界だった。
夥しい数の街灯。とても直視など出来ない車のライト。種々の店が付けた蛍光灯。
小さな太陽に囲まれているような感じがした。昼間の明るさとは違う合理的で無機質な光の群れが、頼んでもいないのに私を夜から引きずり出していた。
安いツアーで、山深くの山荘に泊まったときのことを思い出す。
友人の誘いで、どうしても断りきれなかった。私は典型的な都会っ子で、そんな辺鄙な山奥に好んで行く人間の気が知れなかった。
テレビも雑誌も無い夜に時間を持て余し、私はフラリと外に出た。
数えるのも馬鹿馬鹿しいほどの星に圧倒された。飾る必要の無い純粋な美しさを持つ月に魅了された。
世界がどれほど雄大で自分がどれほどちっぽけか、意識せずとも理解した。
足が震えて、重力に負けた。持っていた懐中電灯が滑り落ち、電池を吐き出して簡単に動かなくなった。
私がいないことに気付いた管理人が探しに来るまでの数時間、土の上に座り込んでひたすらに、生まれて初めて、本物の空を見上げていた。
空を見上げる。つい先程よりもさらに元気の無い月だけが、取り残されたようにぽつんと浮いていた。
共に夜空を彩っているはずの星は全く見えない。自らの居るべき場所はここには無いと悟り、さっさと住む場所を変えたのだろう。
「双眼鏡使っても見えないだろうな……この明るさじゃ」
月しか存在しない空を見上げている私など意にも介さず、多くの人が足早に何処かへと消えていく。
それらは何故か、姿を隠した星たちを連想させた。
ならば、私はきっとあの月なのだろう。
自分の居場所が作り物の紛い物だと分かっていても、面倒なしがらみのせいで抜け出すことが出来ない。
月が何故移動しないかなど、私に分かるはずも無い。
私は箱庭の中で生きすぎた。
時計などより遥かに正確に時を示す星たちのダンスも、電灯などより余程優しい月の輝きも、理解できない私には何の役にも立ちはしない。
「ま、所詮金の奴隷の俺には関係無い話か」
馬鹿馬鹿しい。さっさと――
「あら。もう帰ってしまうの?」
「……え?」
後ろから、年齢の読めない落ち着いた声。
反射的に振り返る。そこには――
「こんばんは。無駄に明るくて、死んでしまいそうなほどにくだらない夜ね」
訳の分からないコスプレ衣装に身を包み、変な何かに腰掛けた、って、え?
「こんな夜だもの。もう少しそこにいてもいいんじゃない?」
「……ッ」
僅かに後ずさる。アスファルトと革靴の擦れる音がやけに遠くに聞こえた。
理解できないということがこんなにも怖いことなのだと、私は嫌というほど思い知っていた。
紫を基調としたドレス風の服、過剰なまでのヒラヒラと大きなリボンのついた帽子、日傘としても雨傘としても役に立ちそうに無い、やたらと小さく無駄な装飾が施された傘。
そのどれもが、私が今まで一度も見たことの無い類のものだった。そんなに女性の服装に詳しいわけではないとはいえ、目の前の女性の服装はそういう範疇を遥かに超えていた。
だが、本当に理解できないのはそれら服装ではない。
どんな服を着ようと、それは相手の自由なのだ。私がどうこう言うことではないし、単に個性的な趣味を持っているのだと言ってしまえばそれまでである。
だが、だが――
「な……何だよ、それ」
座っている何かを指差しながら言う。
赤と黒の禍々しい極彩色はとてもではないが受け付けられない。もし座れと言われたら、全財産を投げ打ってでも拒否するだろう。
よくよく目を凝らすと、その中にいくつかの目が確認できた。生きているように見えるほどのリアルさに薄ら寒いものを感じ、慌てて目を逸らした。
素材など見当もつかない。それ以前に、それは宙に浮いているようにしか見えなかった。
「これ? そうね……まあいいじゃない。あなたに言っても理解できるとは思えないわ」
そう言って笑う目の前の女性は、私の知る全ての女が可哀想になってくるほど美しかった。
まるで人の幻想を形にしたような、そんな現実味の無い美しさだ。
芸能界の女優など比べるべくもない。比べようと考えることすら失礼に感じられる。
彼女と張り合える美しさを持っているものがあるとすれば――あの山荘で見た、本物の夜空くらいのものだろう。
「……それはもういい。で、あんたは誰だ。俺に何の用だ」
「そうね。分かりやすく言えば――」
どこからか取り出した扇子を口に当て、くすりと微笑む。
紫の底の知れない瞳は、怯えきった私を映していた。
「あなたを食べる者、かしら。用はあなたを食べること」
「は……はぁ?」
は、は、は。
とんだお笑い種だ。私を食べる? 冗談じゃない、人間のくせに人間なんて食べるわけが無い。
人を襲うのは肉食獣と、それと御伽噺の妖怪くらいの――
よう、かい?
ドクンと、心臓が無駄に大きな自己主張。
まさか。そんな訳が無いじゃないか。俺のことからかってるんだ。
「ななな、何言ってるんだよ。妖怪なんて、この世界にいるはず無いだろ?」
「そうね、確かにこっちの世界にはいないわ。私たちはこっちでは幻想と成り果ててしまったから」
思わず口をついて出た、妖怪という言葉。
それを彼女は全く否定しなかった。
まるで、俺の言葉が正解だと言わんばかりに。
考えすぎだ。ちょっと聞き逃したに違いない。
妖怪だなんてそんなもの、この世界に居ちゃいけない。
だというのに、彼女の言葉が耳に纏わり付いてはなれない。
こっちの世界にはいない?
それは、つまり。
あっちの世界には、いる。
「何を、訳の分からないことを――」
「ところで」
俺の言葉を遮り、彼女は楽しげに言葉を紡いだ。
「私みたいな異端者がいるのに、やけに静かだとは思わないかしら?」
「……!!」
首をちぎれんばかりの勢いで振り、左右に視線を飛ばす。
スーツ姿のサラリーマン、制服姿の高校生、エトセトラ、エトセトラ……。駅から近いこともあって、数える気にもならない数の人がすぐに俺の目に飛び込んできた。
だというのに、誰も彼も、まるで彼女の存在など気にしていない。
それはあまりにもおかしい。
だって、彼女はこんなにも変な格好をして、変な何かに座っていて、何より。
何より、同じ人間とは思えないほどに美しいというのに――
「べ、別に、あんたのことなんて、誰も気にしてないだけだろ?」
そうだ。人の好みなんて千差万別。それにこんな変な格好をした女、好んで関わろうなんて思う方がおかしいじゃないか。
「大正解。私のことなんて、誰も気にしてないの。唯一、あなた以外はね」
彼女は酷く楽しげだ。まるで、一つずつ逃げ道を潰して遊ぶ狩猟者のよう。
「それじゃあ問題。あなた以外がこれっぽっちも私のことを気にしないのはどうしてかしら?」
俺以外がこれっぽっちも気にしていないのはどうしてか。
そんなの決まっている。関わりたくないからだ。
――違う。
人間がこれっぽっちも気にしないのは、本当に見る価値さえ無いものだけ。
じゃあ、目の前の彼女は?
不思議が形を持ったような彼女に、興味を持たない人間などいるはずが無い。
じゃあ、どうして誰も視線さえ向けない?
考えられる可能性は二つしかない。
一つは、俺が幻覚を見ているということ。そしてもう一つは、
「俺以外には、見えてない……?」
俺自身さえ聞き取り辛いほどのか細い声が漏れる。
否定して欲しい。
俺の勝手な妄想だと、笑い飛ばして欲しい。
人が姿が見えなくなるなんて、あるはずがない。
そんなこと、どんな科学技術を駆使しても絶対にありえないんだから――
彼女は扇子を下ろす。
今までとは違う妖艶な笑みを浮かべて、声を出さずにゆっくりと口を動かし始めた。
俺の目はそれに集中する。まるで外的な何かにそれを強制されているようだ。俺の意識よりも早く、視界は唇に吸い寄せられていた。
視覚は信じられないほど研ぎ澄まされていた。
他の行為に費やすはずのエネルギーを全て眼球に集めているような感覚。それほどまでに視覚は鋭敏になっていた。
今の俺なら、撃ち出された弾丸にこびりついた細菌だって見えるだろう。
もちろん、普通の人間でしかない俺はそんな人外めいたことを普段から出来るわけではない。もしこんなことが常に出来るのであれば、びっくり人間として大金持ちだ。
今の俺は、もしかしたら心臓さえ動いていないかもしれない。それを感じる感覚が無いのだから、本当かどうかは分かりはしないが。
そんな俺の視界の先で、あまりに生々しく、艶かしい唇がじっくりと、焦らすように、一つずつ形を作っていく。
俺には読唇術などというエスパーみたいな技能なんて無いのに、当たり前のように唇が作る文字が理解できる。
あまりの異常事態に、俺自身人間を少し逸脱しているのかもしれない。
「……」
導き出した解答が信じられず、正確に焼き付けた映像を何度も何度も頭の中で再生した。
何度繰り返しても彼女は寸分違わぬ動きを繰り返し、同じ言葉を作り出した。
だ い せ い か い
彼女は、確かにそう告げた。
「嘘だっ!!」
知らず叫んでいた。もう何が何だか分からなくなって、訳も無く泣きそうだった。
「妖怪なんて居やしない、からかうのもいい加減にしろ!」
暴言を吐いて背を向ける、そのまま一気に走り出す。
「酷いわね。私はからかってなんていないのに」
目の前、数十センチの所に彼女。
体が止まらなかったら、激突していたに違いない。
……体が、止まらなかったら?
どうして俺の体は止まっている?
俺は振り返って走り出しただけ。だというのに、体はピタリと止まっていた。
俺の意思も物理法則も無視して、体は勝手に止まっていた。
その原因は、目の前で微笑する彼女以外にはありえなくて。
その事実は、目の前で微笑する彼女が人知を超えた存在であると証明しているようなもので――
「あ、あぁぁ、あぁぁぁぁ――――」
右腕。鞄を持っているはずなのに、重さなど全く無い。
両足。しっかりと地面を踏みしめているはずなのに、感覚そのものが存在しない。
首。それが当然だと言わんばかりに、彼女を見つめて動こうとしない。
「改めましてこんばんは。世界で一人きりになっちゃって、今にも色々終わってしまいそうな夜ね」
「…………」
瞳の色は紛うこと無き紫。だというのに、俺の知るどんな紫とも違う。
絵の具にも、ラベンダーにもアメジストにも、引きずり込まれるような深さなど感じたことは無い。
少しばかり薄めの唇は、桜のような薄桃色。他の女の唇がオモチャにしか思えないほどに妖しく、俺を蠱惑する。
似ているようで、何もかもが違う。
妖怪だというのも、確かに頷ける。むしろ、妖怪でなくてはこの姿を得られる筈が無い。
間近で見て改めて思う。
彼女は綺麗すぎる。どう見ても、とても人間とは思えない。
不可解なことはあまりにたくさんあるのに、全てがどうでもよくなっていた。
生きる者全てが自衛のために持ち合わせているはずの恐怖心も、砕けてボロボロになっていた。
馬鹿みたいに彼女を見つめて惚けるしか出来なくなっていた。
理性も本能も何もかも、彼女の美しさの前では無力だった。
「この世界は、人が一人消えても大した問題にはならないの。だから安心して食事になってちょうだい」
緊張して筋肉が強張るとおいしくないのよね、と彼女は歌うように呟く。
確かにそうだ。
どうせならおいしく食べたいに決まっている。
確かにそうだ。
どうせ俺一人消えたくらいで、大騒ぎになるような世界ではない。
なら、別に食べられても問題無いのではないか。
自殺願望なんて欠片も無いけど、酒と煙草以外には特に楽しみも無い世だ、未練なんてそんなに無い。
それに、食べられるということは。
彼女のあの唇に触れられる、ということなのだ。
彼女のあの瞳に見つめられる、ということなのだ。
ああ、それは。
なんて、甘美な――
そう考えた途端、私の方針は決まった。全てを受け入れ、落ち着きを取り戻していた。
彼女に食べられること。それはこの世の何より上を行く出来事であり、快楽であると断言できる。
そんな想像すらしたことも無かった、「自分の命よりも価値のある」体験を出来るのはきっと今だけなのだ。
ならば、特にこの世に執着する理由も無いだろう。今後何百年生きたって、これに勝る出来事なんてありはしないのだから。
でも。もし許されるのであれば。
食べ物となり果てる私の、最後の我侭を聞いてくれるのであれば――
「キス、して欲しい」
自然と、口をついて出ていた。
人間、覚悟を決めると意外と図々しくなるのかもしれない。
彼女はぽかんと口を開け、唖然としたような表情を見せる。
どこまでも不敵だった彼女がそんな表情をしたことが、少しだけおかしかった。
「……残念。私の唇は、そう安くないのよ」
唇に人差し指を添えて笑う彼女の身長が、何故か急に伸びだしていた。
ほとんど同じ高さにあった紫の瞳が、上へ上へと逃げていく。
手を伸ばせば届きそうだった唇が、遥か遥か遠くへと。
私の目の正面には、すらりと伸びた長い足。
左足を上にして組まれた細い両足は、それ自体が発光しているかのように輝いて見えるほど白い。
組まれた足は地面に着くことなく、中空でピタリと静止している。
そこで気付く。
彼女の身長は、少しも伸びてなどいない。
それはつまり、私の視点がどんどん下がってきているということで。
「俺が縮んでるのか……?」
「残念。はずれよ」
俺の呟きに、彼女は満足げに目を細めている。
「正解は、これ」
彼女は人差し指を地面に向ける。
追うように下に向いた私の目は、彼女が座っている何かに沈んでいく体を視界に収めていた。
何故足元に、という疑問は浮かばなかった。彼女は妖怪で、この何かはきっと彼女が作り出したもの。それだけで十分に納得がいった。
「俺が沈んでるのか。なるほど、それは考えなかったな」
私の体は、もう半分近く呑み込まれていた。
体が呑み込まれるという怪異にも、不思議と恐怖感は無かった。
きっと、呑み込まれる先が彼女が座っているあれと同じものだからだろう。
彼女とお揃い。ペアルックのようで、自然と口元が緩んだ。
少し自分の趣味に合わないだけでこれを気にいらなかった、数分前の自分が信じられなかった。
「あなたは私の食事ではないの。少なくとも、今は」
唐突に彼女が告げる。
それは、あまりに信じ難い、受け入れられない、言葉。
「俺を食べるんじゃなかったのか!? じゃあ、どうして俺はこんなのに沈んでるんだよ!?」
感覚すらない体を動かそうともがき、最早靴しか見えない彼女に向かって叫ぶ。
「私は神隠しの主犯、幻想への案内人。ようこそ幻想の人。幻想郷は、あなたを歓迎するわ」
しかし、彼女は私の言葉など微塵も気にしていないらしい。
今までとは明らかに違う厳かな声が降ってくる。
さぞかし凛々しい表情をしているだろうに、それを見られないのは残念でならない。
「向こうで会ったら、その時は遠慮なく食べてあげるわ。お腹が空いていれば、の話だけど」
彼女の言葉に、私は大体のことを理解する。
何故かはさっぱり分からないものの、私は彼女の居るあっちの世界――幻想郷に送られるらしい。この変な何かはどこでもドア的な何かなのだろう。
ほんの数分を思い返す。確かに色々と終わってしまった夜だった。
常識が粉々に砕けて消えた。
価値観が完全に塗り変えられた。
そして、この世界での人生も終わりを告げた。
そのうち行方不明者としてその辺の掲示板に顔を出すことになるのだろう。尤も、一人暮らしの男が居なくなっていることなどいつ気付かれるか分かったものではないが……。
髪の毛の先まで沈みきった。視界は一面の黒。
光に満ちたくだらない黒とは違う。星と月に彩られた優しい黒とも違う。
得体の知れない何かが潜んでいそうな、経験したことのない黒。
恐怖が実体化して私を包んでいるような、そんな感覚を呼び起こす嫌な黒だ。
唐突に眠気が襲ってきた。
何処でも眠れると自負はしているものの、まさかこんな得体の知れない所で眠くなるとは思わなかった。案外に図太い。
耐えられないレベルではないが、出来ることが何も無いので起きている必要が無い。
このまま眠って、目が覚めたらきっと幻想郷に着いているだろう。
何も変わりはしないが、一応目を閉じる。
色々ありすぎて心が疲れ果てていたのか、意識は瞬く間に溶けていく。
最後に残った意識の欠片で、まだ見ぬ幻想郷に想いを馳せた。
彼女のような妖怪が多分当たり前のように住んでいる地、幻想郷。常識など全く通用しないだろう。
……常識はさっき砕けたんだったか。
もしかしたら、彼女より美しい何かが存在しているのかもしれない。あまりに知識を超えすぎて、想像すら出来ないが。
それでも。
最期は、彼女の食べ物として。
男が消え去った後。幻想への案内人――八雲紫は、閉じた扇子を唇にそっと押し当てていた。
「まさか、唇を求められるなんて……。世の中変な人がいるものね」
紫は名前も知らない男を思う。今頃、世界と世界の隙間の中で怯えているのだろうか?
「暢気に寝ているかもしれないわね。存外にしっかりとしているようだったし」
本来の目的は食事。男を幻想郷へ送ったのは、たまたま見つけたからに過ぎない。
紫は幻想となりかけているものを視ることが出来る。
幻想となりかけているものは、即ち実際に存在するそれが妄想の産物へと貶められようとしているもの。
理由は様々であるものの、辿る末路は同じ。そう長い時を待たずして、世界から消失してしまう。妄想が妄想になるために。
紫は、そんな妄想と成り果てようとしているものを幻想郷へと送り、幻想としての確かな居場所を与える力を持っていた。
それは境界を操る彼女ならではの能力であり、案内人の二つ名に由来するところでもある。
だが、それは紫の義務でなければ仕事でもない。
故に自分の妖力を使ってまで幻想郷へと送らなければならない理由は何処にも無く、事実紫がそれを行うことはかなり稀であった。
だが、この日ばかりは違った。紫はほんの少しの迷いも無く、男を幻想郷へと送ることを決めた。
現実を妄想へと貶めるのは人間の変化に他ならない。
それは仕方の無いことだと思っていた。時代も心も移り行くもの。
新しく何かが入ってくれば、別の何かが弾き出されるのは必然なのだから。
しかし――
「人間の身でありながら心の在り方を否定するなんて、一体何を考えてるの……!」
傘を持った右手は、はっきりと見て取れるほど震えていた。
見ている者がいないとはいえ、紫が感情を表に出すことは相当に珍しい。
紫が幻想郷へと送ったのは、他ならぬ人間そのものであった。
男はただ自然の美しさに大きな感銘を受けただけ。
少しも悪いことではないのに、その心は否定されたのだ。他ならぬ人間たちによって。
紫が幻想郷へ送らなければ、男はそう遠くないうちに死んでいただろう。病死か、事故死か、それとも別の何かかは紫にも分からないが。
自分たちが変わってしまっただけだというのに、変わらなかった男を人間たちの意志が殺そうとしていたのだ。
「こっちの世界は、一体何処に向かっているのかしらね……」
黒が広がるばかりの空を見上げる。
つい先程まであった月は、僅かな雲に隠れて見えなくなっていた。
かつてたくさんの光が舞い踊っていたダンスフロアは、ただの廃墟へと姿を変えていた。
紫が腰掛けていた何かが、広がって、閉じる。
その一瞬で、紫の姿は世界から消え失せていた。
本来の目的など、もうすっかり忘れていた。
久しぶりに裏通りに入ってみたら街灯だらけでがっかりしました。そんなSS。
夢違科学世紀。本当に怖い。そうそうこんな世界にはならないと思いますが……。
万能能力と最強の容姿を兼ね備えたスーパーゆかりんがお送りしました。