ひたすらに穏やかな夜だった。
 暑くも寒くも無い気温、中途半端に輝く下弦の月、草を鳴かせることもない微風。イラつかせる要素も、昂らせる要素も全く無い。穏やかという言葉以外に形容しようのない、そんな夜だった。

「……暇ね」

 当然のように湖の上に浮かぶ少女は、やや上機嫌にそう呟いた。少女の名はレミリア。紅い館を統べる紅い悪魔。
 幻想郷屈指の実力と同じく屈指の我侭さを誇る彼女は、珍しく一人で外を散策していた。
 従者は館においてきた。というより、黙って勝手に外に出てきた。何故そんなことをしたのかと問われれば、レミリアはこう答えただろう。そういう気分だったのよ、と。

「暇ね」

 もう一度呟く。そう、レミリアは暇だった。穏やかな夜に誘われるように出て来てから早二時間。まだ昇りきっていなかったはずの月は、いつの間にか空の頂点でマイペースに世界を照らしている。
 空に輝く月も湖面に光る星も、十分に堪能した。僅かに感じる風の感触も、晩春の空気の香りも、十分すぎるほどに堪能した。今のレミリアには、堪能するものが暇以外には残っていなかったのだ。
 しかし、それがレミリアをイラつかせる要因になり得るかというと、そんなこともない。暇を暇として楽しめないほど無粋ではないから。
 ならばなぜ暇だ暇だと呟いているのかというと、やっぱり暇だからなのだ。今の状況に概ね満足しているのに暇が潰せる何かを期待している辺り、高尚な人の思考はよく分からない。彼女は人ではないけれども。

「……っと、アレは確か」

 暇を堪能しつつ暇潰しを探していた彼女は、遥か遠く――湖の隅の方に見知っているはずの姿を見つけた。一度見たきりの上にあまり関心がなったので案外間違えているかもしれないが、まあ折角見つけたのだから軽く話でもしてみよう。そう結論付けたレミリアは、音も立てずに彼女の元へと飛んでいった。
 ――あまり関心の無い人に話しかけてみようと思う辺り、彼女の思考はさっぱり分からない。話しかけられる側の「彼女」も、やっぱり人ではないのだけれども。





 彼女には名前が無い。周囲からは「大妖精」と呼ばれてはいるが、それは名前ではない。
 しかし、大妖精はそれで構わないと思っていた。彼女の知る限り大妖精と呼ばれているのは自分しかいないのだから、それで何の問題も無いのだと。そういった意味で、本名で呼んでもらえないと日々嘆いている近くの館の門番の気持ちはイマイチ分からなかった。

「……?」

 背後で違和感を感じて、大妖精はおもむろに振り返った。見れば、音も立てずに紅い塊がこちらに向かって近づいてくるではないか。どうして音も立てずに飛べるんだろう、などと考えていた彼女の側にソレは停止した。止まる時にも、当然音など一切しなかった。

「何故気づいた?」
「……はい?」

 不機嫌そうに話しかけてきた紅い弾丸だった悪魔を見つめながら、大妖精は首を傾げた。何故目の前の悪魔が怒っているのか、彼女には全く理解できなかったから。

「私は音なんて立ててないし、気配だって消していた。なのに、どうしてお前如きが私に気が付くんだと聞いている」
「うーん、そうですね。何と言ったらいいのかよく分かりませんが……」

 頬に人差し指を当て、空を見上げる。いつの間にかすっかり癖になってしまった、大妖精が考え事をするときの仕草。
 そんなことをレミリアが知るはずも無く。馬鹿にされされているのかと思い言葉を発しようとしたその時に、大妖精の視線がレミリアの方へと降りてきた。

「何かが近づいてくれば嫌でも分かります。私は風の妖精ですから、この辺りの空気のことがよく分かるんですよ」

 これでよろしいでしょうか? そう大妖精は続けた。上手く説明できたと言う自信がないのか、表情は少し自信無さ気である。

「つまり、お前は空気の動きで私の接近を感知した、と?」
「そういうことになりますね。全然音がしなかったから気のせいかとも思ったんですけど」

 大妖精の言葉に、レミリアはふむ、と軽く頷いた。自分の存在を看破されたのはある意味究極と言える能力の恩恵であって、自分の力が彼女に劣るわけではない。それを確認でき、安心したのだ。一介の妖精に劣るなどと言う噂が広まってしまっては、紅い悪魔も形無しなのだから。

「で、ここで何をしてるんだ?」
「何、と言われても……ここは私の住処ですし。それにこんな良い夜に大人しく引っ込んでいるのは無粋というものでしょう」

 何故怒っていたかは何となく判ったものの、何故レミリアに話しかけられたのか分からない大妖精にとってレミリアの言葉一語一語が緊張の連続だった。
 実はどこかで怒らせるようなことをしたのではないか。チルノがまたレミリアの館に特攻を仕掛けたのではないか。そんな不安ばかりが、彼女の背中に冷や汗となって現れる。

「まあ、確かに今日は良い夜だよ。私が言うんだ、間違いない」
「はぁ、そうですか」

 何処に根拠があるのかさっぱり分からなかったが、とりあえず頷いておくことにした。下手に逆らうと怖いし。

「ところで、私は小腹が空いているんだけど」
「はい?」

 あまりに唐突過ぎる台詞に、大妖精は間の抜けた声を漏らした。そんなこと、私に言われても困――

「私が食べるものは何だと思う?」
「――!」

 目の前の少女が音を立てて自らの皮を剥がしていくような錯覚を覚え、大妖精は知らず後退していた。
 目の前の悪魔は超一流の吸血鬼で、自分はただの妖精。もし襲われれば、自分如きでは簡単にレミリアの食料と化すだろう。目の前に降って湧いた危険を回避しようと、大妖精は高速で思考を巡らせる。

「聞いた話ではあなたは吸血鬼。ならば、きっと誰かの生き血なのでしょう」
「よく分かってるじゃないか。じゃあ、大人しく」
「ええ。ここで出会ったのも何かの縁、一緒に穏やかな夜を満喫しましょう」
「……何だって?」

 にっこりと笑う大妖精を睨みつけながら、レミリアは内心舌打ちをしていた。別に小腹など空いていないし、そもそも何処の馬の骨とも知れない相手の血など吸おうとは思わない。目の前の妖精は馬でも骨でもないが。

「こんな穏やかで良い夜に誰かの血を吸うなんて無粋なこと、紅き館の王であるあなたがするとは思えませんが」
「……っ」

 妖精などに興味が無いレミリアが知っているはずは無いが、普通の妖精と一線を画す力を持つ大妖精は大変長生きをしている。それこそ、五百の年月を越えてきたレミリアさえ問題にならないほどに。そして、レミリアに限らずほとんどの者が知らないものの大妖精は中々に切れ者であった。親友の氷精に振り回される彼女を見ていても想像すらできないが。
 大妖精はレミリアの噂を度々耳にしていた。我侭で気まぐれだが、体面を気にするプライドの高い夜の王なのだと。なるほどその通りだと、密かに安心していた。

「私はこの夜に誘われて穏やかな空気を満喫するためにここにいます。あなたは何のためにここにいるのですか?」
「……お前と同じさ。こんな夜に騒動を起こそうなんてバカはいやしないよ」

 レミリアが少し本気になれば騒動にすらならないし、そもそも食事は無粋ではないのだが。その理屈はあまりに子供じみているので言わないことにした。別にお腹も空いてないし。
 いつか、必ず目の前の小娘を言い負かしてやる。そんな頓珍漢なことを密かに誓う、レミリアお嬢様若干五百歳であった。





「ところで、今日はいつものメイドさんはいないんですね」

 とりあえず危機が去ったので、大妖精は気になっていたことを聞いてみる。正直な所、大妖精はレミリアのことをそんなに怖いとは思っていないのだ。ただ穏やかなだけの今夜を「良い夜」と評せるような人が、やたらと人を襲うとは思えないから。

「偶には一人でフラつきたいこともある。こんな夜なら尚更だよ」

 その気持ちは大妖精にもよく分かった。確かに、今日は落ち着いて雰囲気を満喫したくなるような夜だ。住処に引き篭もって早々に眠ってしまうのは勿体無いが、かといって馬鹿騒ぎして過ごすのも勿体無い夜である。尤も、大妖精の知る限り咲夜はいつでも騒ぎたがるような人種ではないので、互いの気持ちにはズレがありそうなのだが。

「そっちこそあのバカそうな氷精がいないじゃないか。ま、こんな夜にアイツは似合わないけど」
「チルノはバカじゃありません。それにチルノだってこの夜のよさは分かっているはずですよ」

 気持ちがいいほどの真っ直ぐさを持つチルノは、しばしば周囲からバカ呼ばわりされていた。実際の所本気でチルノの事をバカだとしか思っていないのは極少数なのだが、そんなことに気付くことも無くスペルを連発する様はいつ見ても苦笑ものだったりする。

「で、そのバカじゃない氷精は何処に?」
「今日は友達の蛍さんの所に遊びに行っています。そろそろ遊び疲れて眠る頃じゃないでしょうか」
「やっぱりバカじゃないか」
「雰囲気を楽しむより遊ぶ方が楽しい年頃なんですよ。バカだから遊びたいわけじゃないですし、遊びたい人がバカなわけでもありません」

 むっとしながら大妖精は早口に言葉を並べる。その様子が先程と比べると酷く幼く見えて、レミリアは少し驚いていた。見た目以上に落ち着いて見えた大妖精がこんな風になるのが以外だったのだ。

「……やけにつっかかるね。そんなにあの氷精のことが好き?」
「――――」

 大妖精はレミリアの言葉に目を丸くし、それから少し顔を赤らめながらも、

「はい。私はチルノのこと、大好きですよ」

 胸を手に当てて自信たっぷりに、これ以上無い笑顔を浮かべて嬉しそうに断言した。

「恥ずかしいならわざわざ言わなきゃいいのに」

 ため息をつきながら、呆れたように言うレミリア。ほんの僅かに侮蔑の色が含まれていることに、大妖精は気付いているのだろうか。

「確かに恥ずかしいですけど、好きじゃないなんて言う方がもっと辛いですから」

 その言葉を聞いて、レミリアの目がスッと細まる。

「今お前が好きじゃないと言ったとして、それを私が誰かに言うと思っているのか?」
「思いません。そんな意味の無いことを、あなたはわざわざしないでしょう」
「ならわざわざ恥ずかしい思いをしなくても問題無いんじゃないのか? どうせ本人も聞いていないんだし、仮に聞いていたとしてもその程度でどうにかなるような仲じゃないだろう」
「いくら本人がいなくても、いえ、本人がいないからこそ、チルノを裏切るような真似は出来ません。例えそれがその場凌ぎだったとしても」

 真っ直ぐに見据えてくるエメラルドの瞳を睨みながら、レミリアは紅魔館に侵入したチルノを大妖精が引き取りに来た時のことを思い出していた。
 レミリアと大妖精の邂逅はその時。咲夜の言うことを全く聞こうとしないチルノが、大妖精の叱責は大人しく聞いていたのが少しだけ印象に残っていたのだ。どうしてこんなにも素直に言うことを聞くんだろうと不思議に思ったものだった。大して面白いことでもないのですっかり忘れてしまっていたが。

「…………」
「…………」

 静寂が二人を包む。大妖精は彫像のように動かない。ただその瞳だけが、確固たる意思を持ってレミリアを見据えていた。
 その静寂は、不意に表情を緩めたレミリアによって破られることになる。

「お前、名前は?」
「名前、ですか」

 答えにくそうに、大妖精は視線を逸らす。それもそのはず、大妖精に名前は存在してない。もしかしたら大昔にはあったのかもしれないが、覚えてないので同じこと。

「大妖精、でしょうか。みんなからはそう呼ばれています」
「大妖精……?」

 レミリアは訝しげに聞き返す。大妖精、というのはどう考えても名前ではない。まるでパチュリーの部下の小悪魔のような、酷く曖昧な「呼び名」。

「大妖精はこの湖に私一人ですから問題はありません。他に『大妖精』が居ると少しばかり困ったことになりますが」
「暢気なもんだね」

 それにしても大層な名で呼ばれているものだとレミリアは思う。目の前の妖精は特に身長が高いというわけではないから、「大王」「大臣」といった類の意味を持っているはずなのだ。……ってコトはもしかして、目の前の妖精はとても――

「お前、ひょっとして偉かったりする?」
「偉い、ですか?」

 レミリアの言葉に、大妖精は苦笑した。そんなことあるわけ無いじゃないですか、と表情がくっきりと語っている。

「まあ少しばかり長生きはしていますし、他の妖精たちから偶に相談されたりしますけど、偉いなんていうものじゃありません。そもそもこの湖に上下関係なんてありませんし」
「なるほど」

 レミリアは、一人納得したように頷いた。
 本人がどう思っているのかははっきりしないが、呼び名の通り彼女はこの湖の妖精たちを纏める立場にあるらしい。多くの人に敬意を払われているという点では、レミリアと大妖精は全く同じ。逆に全く違うのが、その敬意の出所。自分への敬意が畏怖と憧憬からきているのに対し、大妖精への敬意は信頼と好意からきているのだろうと、レミリアは思った。





「随分と月も沈んだ。そろそろ帰ることにするよ」
「そうですか。それなら私もそろそろ寝ることにします」

 あくびを噛み殺しつつ、大妖精はレミリアの言葉に答えた。
 レミリアは何となく予感していた。大妖精は特徴のある服による特有の空気の乱れ方で気がついていた。
 レミリアが心の底から信頼する、完全で瀟洒な従者が主を探しに近くまで来ていることに。

「そうだ。別れる前に一つだけ、言っておきたいことがあります」
「……?」
「言わなくても通じ合う気持ちでも、偶には言った方がいいですよ。これ、経験談ですから。さすがに恥ずかしいですけどね」
「……考えておくよ」

 にっこりと笑いながら言う大妖精に、レミリアは素っ気無い返事を返す。あんまりといえばあんまりな態度ではあるが、大妖精は全く気にしていなかった。何となく、レミリアの態度が予想できたから。

「探しましたよ、お嬢様」
「あら咲夜。今から帰ろうと思っていたのに」

 極めて正常な姿で現れた従者に、大妖精は目を丸くした。大妖精とレミリアが湖の端の方に居たために、咲夜はかなりの距離を飛んできたのだ。それもかなりの速度で。それなのに、汗をかいていないどころか息一つ乱していない。

「もうあんなに月も沈んでいます。さっさと帰らないと太陽が昇ってしまいますよ」
「そうね。それじゃさっさと帰ることにするわ」

 そう言って何も言わずに大妖精に背を向けたレミリアは、思い出したように振り向いて言った。

「また来るよ。探すのは面倒だからこの辺りに居てくれると助かるわ」

 大妖精は思う。やっぱり噂は本当だったんだなぁ。





「…………」

 己が館に向かう途中、レミリアは迷っていた。原因は先程の大妖精の一言。
 咲夜にねぎらいの言葉をかけたことなどほとんど無い。一々言うのもバカらしいし、何も言わずとも気持ちは伝わっていると分かっているから。
 しかし、それでも言葉に出すべきなのだと大妖精は自信たっぷりに言い切った。恐らくその通りなのだろうと、レミリアは思っていた。

「咲夜。どうしてわざわざ迎えに来たの?」
「どうしてって……どうしてでしょうねえ」

 すぐ側で真剣に悩み始める咲夜を眺めながら、レミリアは思う。
 今日はこんなにも穏やかな夜だから、きっと私は少しばかりおかしくなっているのだ。断じて大妖精の言葉に影響されているわけではない、と。

「お嬢様が心配だったからでしょうか。ほら、日光に当たると気化してしまいますし」
「そう」

 予想通りの返答に、レミリアは腹を括った。笑顔を作ろうとして、恥ずかしいので即却下。自分でもどうなのかと思うほどの仏頂面で、

「いつも心配してくれてありがとう。感謝してるわ、咲夜」

 あまりに自分には不似合いで、思わず噴き出してしまいそうな台詞を口にした。

「お嬢……様?」
「ほら、さっさと帰るわよ! もっとスピードを上げなさい!」

 言いながら、咲夜を待たずにスピードを上げていく。思うように感情がコントロールできなくて咲夜の顔など見ていられなかったし、咲夜に顔を見せたくなかった。

「は、はいっ!」

 それはきっと咲夜も同じなのだろう。普段の咲夜が見たら失笑するほど嬉しそうに返事をしたりして、みっともないことこの上ない。

「まあ、偶にはこんなのも悪くないわね」

 言葉に出さなくてもいいことを、あえて出してみること。それはレミリアが思っていた以上に、素晴らしいことのようだった。
 そんなことを当然のように告げた大妖精に感謝しようとして――

「小娘が偉そうに御託を並べて。私がどれほどの存在か、そのうちきっちりと教えてやらないとね」

 レミリアお嬢様は相変わらずレミリアお嬢様だった。



創想話初投稿はオリ+二次設定の塊の変化球でした。
こいつが盛大にこけてたら創想話がトラウマになってたりしたのかもしれない。
初SSがこんぺだったくらいだからそうでもないかもしれない。
これを原型に大妖精の昔話の妄想もしてますが、脳内で面白がってるうちが華ですね。