世界がこんなに眩しいなんて知らなかった。
あなたが鍵を開けるまで、私は部屋から出たことが無かったから。
世界がこんなに綺麗だなんて知らなかった。
世界で最も綺麗なあなたを、私は見たことが無かったから。
そんな世界は私にとって地獄でしかなかった。
愛しいあなたが、私のことを見てくれなかったから。
ハラリ、ハラリ。ページをめくる度に、聞き慣れた音が耳をくすぐる。
今日の御題は人の心。以前は全く興味が無かったのに、今は気になって仕方がない。
「ようパチュリー、また来たぜ」
最近、本当に気配の消し方が上手くなったと思う。出会った頃は入って来る前に気付いていたのに、今では声をかけられるまで気付かないことも多い。尤も、私がその気配を特別だと思わなくなったから気付きにくくなっているだけのような気もするが。
「何よ、また来たの?」
素っ気無い返事しか返せない私に、彼女はニカッと笑いかけてくれる。彼女の名は霧雨魔理沙。幻想郷屈指の実力を持つ魔砲使いであり、この図書館の天敵であり、私の想い人でもある人間の少女。
「こんないい所に来なくなるなんてあり得ないぜ。本以外にも、色々楽しい所だしな」
「本以外って?」
「例えば美味い紅茶を入れてくれるメイドとか、色々と助けになってくれる司書とか。それから――」
不意に言葉を止めた魔理沙を不思議に思い、本から魔理沙へと視線を移す。そこには、楽しそうにウインクをかましてくれる魔理沙の姿があって。
「素っ気無くて愛想が無くて、でも最近急にアウトドア派になって可愛くなってる魔女とかな」
「――!」
私は最速で本を目の前まで持ち上げていた。顔が燃えるように熱い。
魔理沙はお世辞を言うような人ではないから、言葉は嘘ではないのだろう。魔理沙に可愛くなっていると言ってもらえるのはとても恥ずかしくて、とても嬉しいこと。でも同等か、それ以上に寂しくて悲しかった。魔理沙にとっての私は、可愛くなっているなどということを気楽に言える存在でしかないということなのだから。
「パチュリー? いつも言ってるだろ、本はなるべく離して読まないと目が悪くなるぜ」
こっちのことなどお構い無しに、呆れたような声が飛んでくる。軽く目を閉じて、心を落ち着かせてから答えた。
「それは本を読むことに目が特化していっているだけのこと。悪くなっているわけじゃないわ」
「そうかそうか、パチュリーの目は本を見るためだけにあるんだな。私は悲しいぜ」
よよよ、と泣き崩れる真似をする魔理沙。それが意味する所は一つ。無論魔理沙は冗談で言っているだけなのだが、それでも私にとっては冗談で済まされることではない。
「そうね。確かに本だけを見るわけにはいかないみたい」
「ほう?」
「だって――」
本を下げ、精一杯の笑顔を形作る。上手く笑顔を浮かべられている自信は無かったが、この際気にしないことにした。今の私は必死だから。
「どこぞの白黒のネズミを見張っていないと。放っておくとここが図書館ではなくなってしまうわ」
「……相変わらず厳しいぜ」
お互いに軽口を叩き合っていると思っている魔理沙は楽しそうだった。
表面上は笑って見せていたものの、私はそんなに暢気に笑ってはいられなかった。
冗談に対して本気で返す自分が滑稽だとは分かっていた。分かっていながらも言葉を止められない私は、相当に参っているらしかった。
「魔理沙さん」
「あー? ……何だ、リトルか。どうかしたか?」
「返却期間を過ぎた本が八冊ほど。そのうち三冊は以前から要求していますが」
「今度来るときに持って来るぜ」
魔理沙の声一つ一つに、私の意識は敏感に反応してしまう。視線は本に落としてあるものの、書いてあることがさっぱり頭に入ってこない。事実、魔理沙が来てから私の指は一度もページをめくっていなかった。
「いつもそう言ってパチュリー様に取りに行かせてるじゃないですか」
「それはパチュリーの辛抱強さが足りないだけだ」
「……」
「何だよ」
「…………」
「えーっとだな、言いたいことは言った方がいいと思うぜ」
「………………」
「あー、いつも悪いと思ってる。思ってはいるんだが――」
「思っているのなら持ってきてくださいよ」
「善処はしてる」
最近、私の中には三人の私がいる。魔理沙に熱を上げる私と、それを失笑する私。そして、間で板挟みになって苦しんでいる私。
『まったく、リトルったら余計なことを言わなくていいのよ! 私は魔理沙の所に本を取りに行くのを楽しみにしてるんだから』
『馬鹿じゃないの? そんなの魔理沙に体よく扱われているだけよ』
五月蝿い。
『別に魔理沙が取りに来て欲しいと言ってるわけじゃないわ。それにいつも魔理沙は笑って歓迎してくれるじゃないの』
『それが魔理沙だからでしょ? 魔理沙は誰が来ても歓迎しかしないわよ』
五月蝿い。
『魔理沙は嫌いな人にははっきり嫌いと言う人でしょう! 魔理沙は誰でも歓迎するような人じゃないわ』
『そんな人じゃなかったらどうだというの? パチュリー・ノーレッジは所詮好かれているだけの存在よ』
五月蝿い。
『……もう一度言ってみなさい。身体がバラバラに吹き飛んでいるから』
『何度でも言ってあげるわ。魔理沙にはこっちのことなんて見えていない。魔理沙が見ているのは――』
「五月蝿い……!」
腹の底から絞り出すようなドス黒い声が、何故か自分の耳に届く。
「パチュリー……様?」
「パチュリー?」
酷く驚いた二人の視線を呆然と眺め、私は自分が何をしたのかようやく気付いた。
「……何でもないわ。悪いわね、変な声を出してしまって」
私は何をやっているのだろう?
ぺこぺこと頭を下げるリトルと怪訝な表情を向ける魔理沙に早口に言葉を並べ立てながら、私は一人心の中でため息をついていた。
「つまり、疲れてるから私たちの声が癇に障ったわけだな?」
「まあ、そんなところ。ごめんなさいね二人とも。八つ当たりなんてバカなことをして」
「い、いえ、そんな……」
疲れている、という言い訳に二人は納得したようだった。完全に嘘というわけではないが、身体の疲れを強調した私の言い訳は八割以上が嘘で固められていた。本当は、疲れているのは身体ではなく心。それも私が勝手に一人で悩んでいるだけ。
「じゃあ、これ以上居てもパチュリーのためにならないし帰ることにするぜ」
「え……?」
「え、じゃない。本は次来る時にちゃんと持って来るから、とりあえず今日はもう休め。本も読むな。疲れてるんだろ?」
「あ、その……」
私が疲れていると言った以上、魔理沙がここに居座ろうとするはずが無い。いつもは救いようが無いほど身勝手でこちらのことなどお構い無しなのに、何かあると人が変わったように優しくなるのが魔理沙という人間なのだから。
「……待って、魔理沙」
「どうした?」
でも、そんな魔理沙が今は少しだけ恨めしかった。帰らないでほしい。もっと長く一緒に居たい。そんな想いは、最低の言の葉となって私の外へと飛び出していく。
「私、喉が渇いたの。一人で紅茶を飲むのも味気無いから、魔理沙も飲んでいかない?」
「うーん……それくらいなら別に構わないぜ。一人で飲むより二人だからな」
「じゃあ、私は咲夜さんにお茶を入れてもらうよう言ってきますね」
喉など渇いていない。腹が空いているわけでもない。魔理沙を引き止めるために咄嗟に口走った嘘だ。
椅子に座る魔理沙と図書館を出て行くリトルを眺めながら、私はどんどん暗い闇の中へ沈んでいく。嘘を嘘で塗り固める自分が、たまらなく嫌だった。魔理沙に簡単に嘘をつく自分が、殺してやりたいほど憎らしかった。
「……チュリー? おい、パチュリー? 大丈夫か?」
魔理沙の声が聞こえる。それは私を暗い闇の中から引きずり出してくれる救いの手。しかし、それは時に闇の中へと引きずり込む魔の手にもなる。もちろん魔理沙に悪意があるわけではなく、私が勝手にそういうモノにしているだけのこと。
「大丈夫よ。そんなに心配されるほどヤワじゃないわ」
「ならいいんだが」
心配そうにこちらを見つめてくる魔理沙と視線を合わせられず、私は先程まで読んでいた本に目を落とした。魔理沙が来た時のページに栞が挟まっているその本のタイトルは「心理学から紐解く感情論」。こんなモノが何の役にも立たないことなど分かってはいたが、それでも読まずにはいられなかった。
「へえ、珍しいもの読んでるんだな。面白いのかそれ?」
紅茶が来るまでの暇潰しと言わんばかりに、魔理沙が身を乗り出してくる。興味深げな魔理沙を一瞥して、私は肩をすくめた。
「イマイチよ。そもそも人間が書いた本が私に通用するとは思えないし」
「まあ、確かにお前には人間の心理学は当てはまらないかもしれないな」
人間も魔女もそんなに変わらないと思うけどな。魔理沙はそう続けた。一体何が「変わらない」のだろうか。見た目? それとも考え方?
「よし。ここはこの魔理沙先生に任せな」
「……は?」
突然胸を叩いてニッと笑う魔理沙に、私の思考はついていけない。思わず間の抜けた声を漏らしてしまう。
「だーかーら、人間やら妖怪やらそれ以外やらを見てきた魔理沙先生による心理学講座だって言ってるんだよ。どうだ、面白そうだろ?」
「……」
それは確かに面白そうではある。老若男女、身分の差を越えて多数の人妖と繋がりのある魔理沙なら、何か興味深いことを話してくれるかもしれない。
「魔理沙がどうしても話したいなら話してもいいけど」
お決まりの私の言葉に、魔理沙は嬉しそうに舌打ちをする。幾度となく繰り返されてきた、私たちの間の暗黙の了解のようなものだ。
「僭越ながらこの霧雨魔理沙、お嬢様のために一つ小話など申し上げたいと存じております」
「面白かったら聞いてあげる。……頑張ってね」
視線が絡み合い、私たちは自然と笑みを漏らす。少しだけ身体が軽くなった気がした。
「偉そうに言ってみたのはいいものの、実はこの分野にはあまり関心が無くてな」
「え?」
魔理沙の第一声は、私の予想を遥かに超えていた。いきなり関心が無いと言われても生徒としては困ってしまうしかない。
「関心があるか無いかはどうでもいいこと。きちんとした話を聞かせてくれるんでしょうね、魔理沙先生?」
だらしなく頬杖をつきながら言ってやる。もちろん、先生の部分を強調するのも忘れない。
「当然。ま、いつもの如く私の主観だらけだから汲み取るも汲み取らないもパチュリーの自由だぜ」
「分かってるわよ」
魔理沙の講義はいつも魔理沙の主観が九割を占める。つまり、ほとんどが体験談とそれからくる魔理沙自身の考えなのだ。だから、実は講義でもなんでもなくただの他愛ない会話だったりする。多分魔理沙は気づいていないけれど。
「パチュリーの目標って何だ?」
「いきなりプライベートな質問をしてくれるわね」
「別に教えてくれなくてもいいから。適当に思い浮かべてみてくれ」
「言われなくても教えないわ」
言葉を返しつつ、言われた通り今週の目標からもっと長期間に渡る目標まで色々と思い起こしていく。
今週中に読んでおきたい本が五冊ほどある。今月中に書き上げておきたい魔道書が一冊ある。今年中にはレミィのためにアレを作る必要があるし、妹様が自由に外に出られるように特製の日傘も作ってあげたい。銀に代わる高性能のナイフの刃の材料も作ってやらなければいけないし、そういえばこの間の人形劇の礼に人形の瞳に使う宝石の精製も約束していた。これらを作ることは仕事のような気がするが、今年中に作るというのは目標だろう。
ああ、そういえば最近はなるべく外出してたくさんの人と話す、なんてことも目標にしているのだった。知識の幅が広がる――というのは建前で、本当はただ話したいだけ。そういった経験もとても重要なことだし、何よりとても楽しいから。それを気付かせてくれたのは、言うまでもなく魔理沙なのだが。
「それなりに思い浮かべてみたわよ。それで、目標がどうしたの?」
「そう慌てるなって。とりあえずそれは横に置いておいて、次の質問行くぜ」
横に置くジェスチャーをしてから、魔理沙は人差し指をピンと立てた。
「パチュリーは夢って持ってるか?」
「またよく分からない質問してくれるわね」
「ここが今日の話のキモなんだからな。それなりに考えてみてくれ」
魔理沙の目がにわかに真剣味を帯びて輝きだす。なるほど、これは本気で考えなければならないようだ。
「わざわざこんな質問するくらいだから、目標とは別ってことよね?」
「違うかもしれないし、実は言葉が違うだけで同じかもな」
意地悪く笑いながら魔理沙は肩をすくめる。答える気は無い、という分かりやすい意思表示。
「夢……ねぇ」
将来に対する希望や願望、それが夢という単語が持つ意味のはず。となると、私の夢は?
「よく分からないなら、毎晩見る夢を思い浮かべてみるといい。きっとそれで分かるはずだ」
困っていたのが顔に出ていたらしい。サラリと助け舟を出してくれた。
「それは経験談?」
「かもな」
昨日の夜。魔理沙と共同でスペルを作り出す夢だった。
一昨日の夜。魔理沙と初めて出会った時の夢だった。
その前の日の夜。レミィと妹様が仲良く遊んでいる夢だった。
その前の日の夜。魔理沙と一緒に料理を作っている夢だった。
その前の日の夜。アリスに人形操術を教わる夢だった。
その前の日の夜。魔理沙の箒に乗って夜空を飛び回る夢だった。
その前の日の夜。咲夜とチェスをしている夢だった。
その前の日の夜。魔理沙と太陽の下を散歩する夢だった。
その前の日の夜。魔理沙の家で蒐集品について語り合う夢だった。
魔理沙の夢。魔理沙の夢。レミィの夢。魔理沙の夢。咲夜の夢。魔理沙の夢。アリスの夢。魔理沙の夢。妹様の夢。レミィの夢。魔理沙。魔理沙。咲夜。妹様。魔理沙。美鈴。魔理沙。レミィ。魔理沙。魔理沙。妖夢。魔理沙。妹様。レミィ。魔理沙。魔理沙。幽々子。魔理沙。アリス。魔理沙――。
「……ッ!」
僅かな眩暈を感じ、私は咄嗟に右手で顔を覆った。魔理沙に無様な姿は見せられない。今の私は無理を言って起きている身、何かあればすぐにでも魔理沙は帰ってしまう。
「パチュリー、どうした? やっぱり体調が悪いんじゃないのか?」
心配そうに、こちらを覗きこんでくる。いつもいつも思うのだけれど、魔理沙は私に対して遠慮というものが無い。レディを何だと思っているのだろうか。
「自分の夢が下らなすぎて呆れているだけ。心配してくれなくても大丈夫よ、私の体調は私が一番よく分かっているから」
右手をひらひらさせながら苦笑してみせる。魔理沙は安心してくれたようだった。
それにしても、我ながら本当に呆れた夢を見ているものだと思う。ここまでとんでもないことになっていること全く気が付かないなんて、私は少しおかしくなってしまっているのではないだろうか。
『そんなことは無いわ。好きな人と一緒にいたいと思うのは当然よ』
『夢で会えるだけで満足? 本当は愛されたいと願っているくせに?』
『私は満足なんてしていないもの。魔理沙みたいに輝けるように、いつも自分を磨いてる』
『それを魔理沙は見ているの? 魔理沙が見ているのは何時だって――』
「それで。結局何が言いたいの?」
私は魔理沙に先を促す。頭の中で騒ぎ立てる二人は力尽くで黙らせた。
「そう急かさなくてもちゃんと言うって。今日の話のキモは、夢と目標の違いだ」
「夢と、目標の、違い?」
それは確かに今の私はよく知らないことだった。それはとても興味深い話のはず。私の知識が深まる助けになってくれるモノのはず。それなのに、どうしてだろうか。私の直感が、聞いてはいけないと全力で叫んでいる。
「そう。夢と目標には絶対の違いがある。パチュリーはよく分かってないみたいだけどな」
「私だって何もかもを知っているわけじゃないわ」
でも私はそんな声よりも、楽しそうに続きを喋ろうとしている魔理沙の方が大切だった。だから私は、視線で先を促すに決まっているのだ。私の魔女としての直感がどれだけ優れているのかをよく知っているというのに。
「人間やら妖怪やらそれ以外に聞いてみたんだが、みんな大体同じ見解だった。もちろん、私も含めてな」
「珍しいわね、どいつもこいつもが同じ意見だなんて」
「それだけ大切なことなんだろうな」
その大切なこととやらを言いたくてたまらない魔理沙の顔は、破顔しすぎていつもより更に幼く見えた。その笑顔につられるように私も少しだけ笑顔を浮かべて、
「簡単に言うと、目標はいつか届くモノ。夢は一生届かないモノだ」
その笑顔は一瞬で凍りついた。
「目標としていることは実現のために努力をしてるだろ? でも夢を実現しようと本気で努力することはない。もしくはどれだけ努力しても実現しない。何故かって言うと、どれだけ頑張っても実現しないと本人が思っていることが夢だからだ」
「……そうなの」
「夢で見る内容は他愛ない日常とか過去の出来事なんかもあるが、ほとんどは叶わないと分かっていてそれでも諦めきれない願望――つまり夢に関することらしい。私の夢もそんな感じだし、概ね間違ってないと思う」
「そう」
少しだけ照れたような笑みを浮かべる魔理沙が視界に映っている。それは、私には一度も見せてくれなかった表情。そして、私が絶対に見たくなかった表情。
「ねえ、魔理沙」
「ん? 何だ?」
「その――」
闇に溺れてしまいそうな私の目の前には、蜘蛛の糸よりなお細い一本の糸が垂れ下がっている。それを掴めば、もしかしたら助かるかもしれない。でも、私には確信があった。その糸は必ず切れるという確信。そして、その糸を掴むのに最後の力を振り絞らなければならない私は、糸が切れてしまえばすぐに沈んでしまうという確信。
このまま放っておいても、私はいずれ力尽きて沈んでしまうだけ。ならばいっそのこと思い切って糸を掴んだ方がいいのかもしれない。でも、今の笑みで糸が切れない可能性は零になった。魔理沙を見続けてきた私自身が、その糸は絶対に切れるのだと誰よりも分かっていた。
「パチュリー?」
「えっと、だから――」
聞けば私は終わってしまう。それは分かりきっていた。今聞くべきではないことなのだと誰よりも理解していた。でも、私は聞きたかった。魔理沙自身の口から、私の憶測を否定して欲しかった。その糸は切れないのだと、魔理沙に言って欲しかった。
天秤は揺れもしない。私一人では結論が出ないほど、それは拮抗していた。
「どうした? 言いたいことははっきり言った方がいいと思うぜ。一人で考え込むのはパチュリーの悪い癖だ」
「……そうね。じゃあ聞かせてもらうけど――」
その魔理沙の一言が決め手となって、私の天秤はあっさりと傾いた。内気で暗いのだと思われるのが嫌。そんな些細なことが、糸を掴むことを決断する一番の要因になった。
一人の私が期待に満ちた目で事態を見守っていた。一人の私が蔑んだ目でため息をついていた。そして私は、あまりに重大な言葉をあっさりと口にした。
「魔理沙の夢って、何?」
「――――」
魔理沙は私の質問が意外だったらしい。口をぽかんと開けてぱちぱちと瞬きをしている。
「私の夢か。私の夢はな――」
私の見立てが外れるという、零の可能性で織られた極細の糸を必死で掴む。お願い。お願いだから魔理沙、どうか――
「――秘密だぜ」
とある誰かといる時にしか見せないはずのはにかんだ笑顔が、糸を容赦無く断ち切っていた。
「ねえ、魔理沙」
「あー?」
「実現しないのが夢なのに、どうしてそんなに楽しそうに言えるの?」
魔理沙の夢は分かっても、これだけは分からなかった。溺れてしまった身が本当に力尽きてしまう前に、何か光を見つけたかった。
「ふむ。それはだな」
私の言葉は予測の範疇だったのか、魔理沙の表情に変化は無い。
「パチュリー、人の夢って書いて何て読むか分かるか?」
「人の、夢?」
手の平にササッと書いてみる。人の、夢……。
「儚い、かしら?」
「そう。私の夢は――いや、人間が見る夢は決して叶うことのない儚い幻なんだよ」
「……だから?」
「叶わないものだと割り切ることにした。私だけじゃない、人間はそうやって自分の夢と折り合いをつけながら生きていく生き物なんだ。まあ、パチュリーには分からないかもしれないけどな」
「どうして?」
「だって、パチュリーの夢は叶うかもしれないだろ? パチュリーは私と違って長生きできるんだからな」
「叶わないのが夢だと言ったのは魔理沙よ? 私がどれだけ生きようと夢は叶わないじゃない」
論理が破綻している。私は叶わないと思っているからこそ、夢を夢だと認識しているのだ。私がたとえ不老不死であっても、夢が叶うことは絶対に無い。
「パチュリー、人の話聞いてないだろ」
「え?……痛っ」
魔理沙の指が私の額を弾いた。デコピンというらしいそれは、眠っていたり話を聞いていなかったりする私に向けて魔理沙がよく使う戒めのようなもの。
「儚いのは人の夢だ、って言っただろ? 自分が抱くとびきりの幻想を叶えようとするには、人の命はあまりに短すぎる。でもさ、パチュリーは人間より何倍も長生きできるんだ。その間ずっと頑張っていれば、いつか夢を目標に変えられるかもしれない。夢だったモノが実現可能なレベルになるまで自分が上り詰めればいいだけのことだからな」
「夢を、目標に変える……」
「だから、永琳や幽々子は夢なんて無いって言い切ってたぜ。私にあるのは目標だけなんだ、ってな。まったく、ちょっとだけ羨ましいぜ」
魔理沙の言う通り、寿命が長い者が見る夢はほとんどが目標へと変わっていくのだろう。長く生きれば生きるほど、実現を目指して出来る努力の量が増えるのだから。夢そのものに寿命が無ければ、の話だが。
「魔理沙。私の夢は、私が不老不死でも目標になったりはしないわ」
自嘲の呟きが口をついて出る。魔理沙に聞こえないように言ったつもりだったが、魔理沙の不思議そうな視線はこちらをきちんと捕らえていた。
「何か言ったか?」
「何も言っていないわ」
私の夢は人の夢。あとほんの数十年で消えてしまう、儚い幻。
「ついでに、もう一つ聞いておきたいことがあるんだけど」
夢が儚い私と、自身も夢も儚い魔理沙。多少の差はあれども、夢が絶対に叶わないという点では同じだった。
私と魔理沙の夢はほぼ同じ。その夢が叶わないことがどれだけ辛いことか、この身は嫌というほど理解していた。そして、それを利用しようとしている最低な私がここにいた。
「何だ?」
「魔理沙は夢を叶える気が無いのよね? なら、叶えられない分だけ少なからず心に隙間が出来るはず。その部分はどうするつもり?」
「――――」
魔理沙の表情が曇る。一番聞かれたくないところなのはよく分かっている。私だって、そんなことは考えたくもない。
「そうだな……そういえば考えたこと無かったな」
寂しそうに笑う。それを見た私は、僅かに光が見えた気がした。絶対に逃すまいと、その光に向かって懸命に手を伸ばす。
「ねえ魔理沙、わた――」
「まあこの世は楽しいことだらけだし。きっとそれで埋めていくんだろうな」
――しは夢の代わりになれないかしら。
「そう。頑張ってね」
その光もまた、儚い幻だった。
魔理沙は強く生きていけるのだろう。魔理沙は強くて、前向きで、何より人間だ。人の身だから、人の夢は儚いモノなのだと受け入れられる。体がそういう風に出来ているから。
私はもう駄目なのだろう。弱くて、一人で歩くことも出来なくて、人間ですらない。魔女の身でありながら人の夢を抱いてしまった私には、叶わないということを受け入れられるはずがない。そんな仕組みは、私のどこにも出来てはいないから。
人間も魔女も変わらない、という魔理沙の言葉を思い出す。魔理沙の言う通り、見た目も考え方もほとんど変わらない。でも、根底があまりに違いすぎる。それこそ、未来が真っ二つに分かれてしまうほどに。
「紅茶とクッキーをお持ちしました。パチュリー様、大丈夫ですか? 体調が思わしくないと聞きましたが」
瞬間移動でもしたかのように、魔理沙のすぐ側にトレイを持った咲夜が立っていた。相変わらず完璧な仕事だが、別にどうでもよかった。
「ええ、大丈夫よ。調度キリもいいしここまでね。お疲れ様魔理沙」
「じゃ、大人しく紅茶を御馳走になるとするぜ。それにしても今日はやけに遅かったな」
「今日の紅茶は貴重品。探すのにも淹れるのにも多少時間がかかってしまうものよ」
「貴重品か。そいつは楽しみだな」
「珍しいわね、レミィ相手以外に奮発するなんて」
「もう、私を何だと思っているんですか? はぁ、それだけ口がきけるのなら大丈夫そうですね」
暗い闇に心を喰われてしまった私はただの人形だった。だから、周囲にあわせて私らしくない軽口を叩いたりできるのだろう。
『人の心は変わりやすいものよ。まだ、全部終わってしまったって決まったわけじゃないわ』
『あなた正気? あの魔理沙が心変わりするなんて、本気で思ってるの? そんなこと絶対にありえない。それこそ、私が魔理沙のことをきっぱり吹っ切るのと同じくらいにね』
私の心の鍵を開けたのは魔理沙。私はその光輝く魅力に導かれて広い世界を歩いていた。その光があるからこそ、私は世界を歩いていけていたのだ。
私は分かっていた。その光が私を照らしていないと魔理沙自身から告げられてしまった時、まだ自分で光を生み出せない私は動けなくなって立ち往生してしまうしかないということを。
魔理沙の夢が何かなんて聞くべきではなかった。気付いていないふりをして黙っていれば良かった。今更のように悔やんでも、もう後の祭りだった。
「ほう、これは確かに貴重品だな。いや、美味しいから貴重品という考えは間違ってるのかもしれんが」
「概ね間違ってはいないわ。パチュリー様もどうぞ。美味しいですよ」
「……ええ、美味しいわね」
全然味などしなかった。
「あれ、まだ起きていらっしゃったんですか」
魔理沙が帰ってからもずっと椅子に座ったままボーッとしていた私に、聞き覚えのある声。首だけを動かして声の方に視線を向けると、本を四冊ほど抱えたリトルが立っていた。
答えるのも面倒でリトルから視線を外すと、テーブルの上に置いてあった懐中時計が目に入った。それが示す時間を見て、驚愕が電流のように全身を駆け巡る。それが刺激になって、私は少しだけ活力を取り戻した。
「あなた、何やってるの?」
手元の懐中時計は既にとんでもない時間を示していた。こんな時間までずっとボーッとしていた私も私ではあるが、それ以上にリトルが起きていることが信じられない。
「本棚の掃除ですけど。月に一度本棚の清掃をしろと仰ったのはパチュリー様じゃないですか。忘れた、なんて仰ったりはしませんよね?」
おどけたように言うリトルを呆然と眺める。
確かに、ずっと昔にそんなことを言ったような気がする。だが、それはまだ司書の仕事に慣れていなかったリトルを叱り付けた時に偶然飛び出しただけの戯言のはずだ。
「あなた、本当にずっと本棚の掃除をしているの?」
「パチュリー様が仰ったんだからしてるに決まってるじゃないですか。さすがにまとめては出来ないから毎日少しずつやってますけどね。三十等分すればそこまで多くもないですから」
「毎日って……毎日こんな時間まで起きているの?」
「いえ、もう少し早く寝てますよ。今日は少し手間取ってしまっただけです」
笑顔で言うリトルの言葉が、私にはどうしても信じられなかった。私がいつ見ても、リトルは軽快に働いていた。疲れた様子など見せることなく、不満を漏らすことなど一切無く。
「ねえ、リトル」
「はい、何でしょう?」
「どうして本棚の掃除をしているの?」
「いや、だからパチュリー様が――」
「じゃあ、私が死ねといったら死ぬのかしら?」
「――――」
さすがに面食らったようだった。
でも、リトルよりも私の方が驚いている。私は何を言っているのだろう? 今日は色々あって疲れたのだ、もう眠った方が――
「それがとても重要な意味を持つのなら」
「――え?」
「パチュリー様のお役に立てなくなるのは残念ですが、もし私が死ぬことによって何かが起こるのなら――例えば、死に直面しているパチュリー様が助かるというのなら、私の命なんて喜んで差し上げますよ」
とんでもないことを何でもないことのように告げるその表情は、惚れ惚れするくらい澄んでいた。社交辞令とか、出まかせとか、そういった感じが一切感じられない。
「リトル? 何を、言っているの?」
「私はパチュリー様に全てを捧げています。パチュリー様が魔理沙さんを想っているのと同じくらい、私はパチュリー様を大切に想っています」
「…………!」
「そうですね、証拠をお見せしましょうか。……昼間、疲れていると仰ったのは嘘ですね?」
「え……?」
「パチュリー様の体調なんて自分の体調と同じくらいよく分かります。何十年一緒にいると思ってるんですか」
真摯な態度で告げるリトルが、いつもと別人に見える。ほとんど意識すらしていなかった存在が、急激に大きくなっていく。
「最近、ちょくちょく心理学の本を読んでおられましたね。どうやったら魔理沙さんの気を引けるのか、どうにかして知りたかったからでしょう」
「…………」
「でも、そんな本なんかで人の気持ちが分かるわけがないと理解していて、それでも止められない御自身にパチュリー様はイライラしていた。昼間の怒声も私たちに向けたものではなく、御自身に向けたものだった。違いますか?」
いつの間にか、頭がボーッとしてきていた。リトルの言葉が、表情が、私を埋め尽くしていく。リトル以外の世界が、段々と色を失っていく。
「パチュリー様は自分で思っておられる以上に考えが表情に出る方です。ずっと見てきましたから、口先だけの嘘なんてすぐに分かってしまいますよ」
「リトル……」
これほどまでに好意を向けられているという事実が嬉しかった。それ以上に、心を喰い潰した闇を取り除くための何かが欲しかった。
「昼間、魔理沙さんと何を話されたのかは分かりません。ですが、もし私に何か出来ることがあるのなら遠慮なく仰ってください」
「酷いこと、言うかもしれないわよ。それでも、いいの?」
「あはは、構いませんよ。パチュリー様が嬉しい時は一緒に笑っていたい、悲しい時は慰めてあげたい。そんな夢を、私もずっと持っていましたから」
身体がどんどん熱を帯びていく。もう、自分を抑えることなど出来はしない。抑える必要も何処にもない。リトルは私と同じ夢を持っているのだから、何をしても拒むはずがない。はっきりとそう口にした。はっきりと表情が語っていた。
かぶっていた帽子をテーブルの上に放った。これからすることを考えると、どう考えても邪魔にしかならないから。
「私はパチュリー様のためなら何でも出来ます。パチュリー様が喜んでくださることが私の一番の喜びですから」
「……そう」
もう、言うべきことは無かった。自分とは思えないほど攻撃的になっている自分も、別人にしか見えないリトルも、霧に覆われたようにぼんやりした思考は疑問に感じなかった。
「リトル」
「はい?」
近付いて、持っている本を払い落とす。
「わわわっ、何するんですかパチュリー様!?」
「私の物に、なりなさい」
跪いて本を拾おうとしたリトルの顎を持ち上げ、上を向かせる。
「え……? パチュリー様、何を言っ――」
言葉の続きは、唇の中に消えた。
思い切りひぐらしに影響を受けて書いたSS。なのでこんなものも。 キャラありきが信条の私には珍しいキワモノ。そのためか創想話での評価もかなりばらついてます。 でも思い入れは深く、出来も割と自信があったりします。 ……つーか今の私より上手いんじゃないのかコイツ |