春先の冷えた空気はどこまでも澄み渡り、大きな真円の月をはっきりと映し出している。発する銀光は、全てを平等に、優しく包み込んでいた。
それは、深い竹林の奥にひっそりと佇む寂れた屋敷も例外ではない。
「お呼びでしょうか、姫」
「またこの時期が来たのね。ほら、庭がこんなにも綺麗」
かけられた言葉などまるで無かったかのように、軒先に立つ少女はぽつりと呟いた。視線は庭、視界には咲き誇る色とりどりの花。
庭は花が満開であった。春夏秋冬の花が咲くその様は正しく異様であるが、同時に例えようも無く美しい光景ともいえる。
「六十の時計が再び零を刻む。人も魔も、世界さえも生まれ変わると言うけれど」
手には一枚の札。とうに許容量を超えた莫大な霊力が込められたそれは、自らの形を維持するために霊力を光として放出し始めていた。さながら地上に具現した小さな太陽。暴力的な強い光で、周囲の花々を染め上げている。
黒い夜空を背景に美しく浮かび上がる花々は、ほんの少しだけそよいでいた。あたかも身の危険を察知して、遠くへと逃げ出そうとしているかのように。
「時計を遠くから眺めているだけの私は、何が変わることもない。ただただ黙って、無限の時に潰されるのを待つだけ」
たん、と音を立てて庭に降り立つ。艶やかな黒い髪が、ふわりと滑らかに舞った。従者は部屋の入り口に立ち尽くしたまま動かない。表情を動かすこともなく、石像のようにそこに在る。
「花、花、花、花、花。これが全部魂ですって? 多い尽くさんばかりのこの花が、死を受け入れられない人の成れの果てですって? なんて、なんて――」
ウラヤマシイ。
一人身体を震わせる。くつくつと、抑えられない呻きが喉から漏れる。
嫌悪。落胆。羨望。悲愴。
種々の感情は混じりあって混沌と化す。混沌はさらに混じりあい、永劫の時の中で一つになり心を塗りつぶした。
少女は哭いている。大きく見開かれた目からは、留まることなく涙が流れ続ける。
少女は嗤っている。端整な唇は大きく吊り上り、三日月どころか鋭利な刃物。
少女は――狂っていた。
行き場のない感情は、変化のない毎日と終わることのない時間の中で心を痛めつけていった。何一つとして少女の心を安らげるものはなく、少女の心が完全に砕けてしまうのも時間の問題だっただろう。故に心を狂気に染めた。真っ当な感情を捨て去ることで心への負担を減らし、心が少しでも長く生きていられるように。いつか心に活力を与えてくれる何かが起きると信じて、脆い心を硬い狂気で覆っているのが今の少女の心の姿。
「神宝」
時の流れ方が違うのではないかと疑いたくなるほどにゆっくりと、札を持った右手を空に向け掲げた。空気ごと全てを引きずり込もうといわんばかりの強い風が札に集まり、螺旋を描いて天に昇っていく。
「喰い散らせ」
光が、音が、全てが収束していく。あまりの強風に耐えられない花は土ごと呑みこまれ、空高く吹き飛ばされていく。
「ブリリアントドラゴンバレッタ」
夜が、鮮やかに染まった。
庭は無残な姿を晒していた。巨大な扇に押し潰されたかのように、あったはずの何もかもが粉々になっている。
その中心には裸身の少女が一人。月の光を編みこんだかの如き白い肌を、何の感慨も無く夜の空気に晒している。彼女を包んでいた着物は風に煽られ千切れ飛び、龍に喰われて塵になっていた。
「庭の修復をしておきなさい」
少女は従者に修復を命じる。自分が破壊してしまったことなど忘れてしまったかのように。その表情に感情の色は無い。その瞳は何も映していない。
もしもこの光景を切り取って誰かに見せたら、どこかの高名な人形師の作だと勘ぐる人さえいるかもしれない。人であると思うにはあまりに表情が無さすぎる。生き物だと思うには、その姿はあまりに美しすぎる。
「かしこまりました」
答える従者の表情は、部屋に入った直後から少しも変わってはいなかった。従者はひたすらに忠実に少女の側に在り、命に応え、力を尽くす。それが自分のあるべき形だと思っているのか、それとも思考回路が壊れてしまったのか。
表情からは窺い知れない。行動からも全く分からない。人の域を外れた傀儡なのだと、そう考えた方が自然かもしれない。
遠い遠い昔の話。藤原妹紅が迷い込む前の、とある竹林の奥の屋敷の話。生と不生の境界を彷徨う二つのヒトガタの、ありふれた日常の話。
元々から堂々と設定を無視していましたが、求聞史記の登場でさらに顕著になってしまいました。
結構頑張って漢字をいっぱい使ってみたのですが、何か中二病っぽくなっちゃってますね。
薄いながらも絶対的な壁を生んでるのは多分語彙力だろうなぁ。