マヨイガ。幻想郷の端に位置すると言われている、八雲紫とその式たちの住まう屋敷である。尤も、言われているだけでその場を正確に知る者は住人以外にはいない。マヨイガは迷った末に行き着く所であり、自分の意思で辿り着く場所ではないからだ。
「ふわぁ……何だか騒がしいわね」
そんなマヨイガの一室に、八雲紫は居た。布団の中で体を伸ばしながら、欠伸を一つ。寝起きである。
「また藍が毛玉たちとはしゃいでるのかしら? 私が命じたとはいえ頑張るわね」
尤も、紫の言う「はしゃぐ」とは遊ぶことではない。部下の訓練兼コミュニケーションのことである。自らの力だけでどうにか出来るようなルールではない以上、毛玉たちを自分の手足のように使える必要があった。
今更言うまでも無いことではあるが、幻想郷は今未曾有の戦国時代――と言ってもルール付きの遊びではあるが――の真っ只中である。
ほんの小さなことから生じた亀裂は、あっという間に修復不能なまでに広がってしまった。本来ならトップ同士の弾幕ごっこで簡単にけりがつくのに、である。
その原因は、様々な所で暗躍した紫にある。互いが仲直りをしないように、無関係の者を巻き込んで争いが大きくなるように。紫は心から楽しんで、幻想郷中を争いの渦に巻き込んでいった。
霊夢あたりが聞いたら一笑に付すのだろうが、紫はとてつもなく頭が切れる。普段だらけて眠っていてばかりなのは、半分は黙々とその爪を研いでいるからである。半分はただ眠りたいだけであるが。
そして今、紫自分の城で体を休めている。言うまでも無く、爪を研いでいるのだ。
紫は、夢幻館に狙いを定めていた。土地の豊かさも経済の活発さも申し分無い一級品。そんな土地がすぐ近くにあるのだから、紫が幻想郷統一の足がかりとして考えるのは当然のことであった。
かつて、夢幻軍と八雲軍は同盟を結んでいた。紫にとっては偽りの、幽香にとっては――そんなこと、紫にとってはどうでもよかった。自身の戦力を整え、同盟破棄、そして一気に侵攻。不意をつかれた夢幻軍に対抗する術は無く、戦況は圧倒的に八雲有利で進んでいた。
現在、橙が指揮する先行部隊が夢幻の里を進行中である。そこを陥落させ次第、藍と紫が指揮する本隊が八雲大社を通って一気に夢幻館に攻め込む手筈になっていた。
「……幽香、ねぇ」
紫は勝利を九割方手中に収めていながらも、決して油断はしていなかった。
オリエンタルデーモンと称される夢幻館の城主。その実力は先行する橙の報告から、そして同盟を結んでいる――半ば従属させている、プリズムリバーたちの進言からよく知っていた。
戦争は勝利を確信し、油断したものから脱落していく。その点で言えば、紫に非は微塵も無かった。
あくまでも、その点に限って、言えば。
「ゆっ……紫様!」
ノックの一つも無く、慌しく藍が駆け込んでくる。焦り切ったその表情からは、普段の朗らかさも、戦闘中の冷静さも全く感じられない。
「騒がしいわね、藍。もう少し上に立つ者としての貫禄を身につけなさいといつも言っているでしょう」
藍の表情に一抹の不安を覚えながらも、紫はそんなことを表情には出さない。僅かに眉をひそめて扇子を広げ口元を覆い隠す仕草は、対する者全てを飲み込むに十分なカリスマ性と優美さを併せ持っていた。
「そ、そんな悠長なことを言っている場合ではありません!」
「だから、さっきから何を慌てて――」
「プ、プリズムリバーが……プリズムリバーが裏切りました!」
紫の手から滑り落ちた扇子が乾いた音を立てた。
同時に、当主としての貫禄も、全てを従わせる威圧感も、何もかもが音を立てて崩れ落ちていた。
「な……何ですって……?」
「八雲大社と博麗大結界は奪われ、敵は既に――」
「――いつになく騒がしいですね」
藍と橙以外の何者も入ることを許されない紫の寝室に、よく知っているはずの声が静かに響いた。それだけ。たったそれだけで、二人の会話は凍りついたように止まった。
藍は一瞬誰の声か分からなかった。その声は、ここにで聞こえる筈の無い無い声だったから。
紫は一瞬誰の声か分からなかった。その声は、以前とあまりに質が違っていたから。
二人の視線の先。声の主、ルナサが静かに立っていた。
「こんにちは。いや、ここでは初めましてと言った方がよろしいでしょうか?」
その優雅な礼は、二人がよく知っているルナサと何ら変わりは無い。ただ、表情だけが完全に別人になっていた。
その表情を藍はよく知っていた。
それは、当主として自分に指示を出す時の紫の表情。敵にすると鬼よりも恐ろしく味方にすると神よりも頼もしい、絶対的な支配者の表情であった。
「いい屋敷ですね。土地も豊かで、何より堅牢です。場所も、屋敷そのものも」
「ルナサ……! お前、どうやってここに?」
「橙に案内してもらいました」
藍の言葉に、ルナサは当然のように答えた。まるで今日の夕食の話をするように、極めて自然に。
「橙、だと……?」
藍の眉がつり上がる。橙は夢幻の里を侵攻中のはずなのだ。その橙がルナサをここまで連れて来るとなると、考えられることは二つしかない。
一つは、橙が任務を放り出してルナサと遊ぼうとしているということ。もう一つは、侵攻中の橙が強襲にあい、捕らえられてしまったということ。
橙はまだまだ子供ではあるが、やるべきことを見失うような愚か者ではない。そうなると正解は一つ。
「ルナサ、橙をどうした! 場合によっては――」
「私たちは悪魔じゃないんだから。虐めたりなんてしないよー」
怒気を多分に含んだ藍の声を、外からの緊張感の無い声が遮った。
部屋の人口密度が上がる。入ってきたのは縄を持つリリカと、両腕をその縄で拘束された――
「橙!!」
「待ちなさい!」
駆け出そうとした藍の腕を、紫がギリギリの所で掴んでいた。
「紫様、どうして――」
「もう少し冷静になりなさい。簡単に自分を見失うようじゃ生き残れないわよ」
藍が駆け出そうとした先、つまりは橙のすぐ後ろ。橙の影に隠れるようにして、八体の毛玉が待機していた。あとほんの僅かに紫の反応が遅ければ、藍は至近距離からの毛玉の突撃によって目も当てられない状態にされていただろう。
藍は、知らず体を震わせた。いかに自分が甘かったかを、まざまざと痛感させられていた。
「うんうん、さすが事件の黒幕さんだ。戦争っていうものがよく分かってるね」
「……褒め言葉として受け取っておくわ」
カラカラと笑うリリカを、紫は敵意を込めて睨み付けた。そんなことをしても何が変わるわけでもないが、それでもせずにはいられなかった。
自分が動き回っていたことを見抜かれていた。紫にとっては、今の状況よりもそちらの方が大きな問題であった。
誰にも悟られぬように動いたつもりだった。紫の思惑通りに幻想郷中で戦闘が始まっていたから、誰もが紫の掌の上だと信じて疑っていなかった。
しかし、リリカははっきりと口にした。紫は黒幕なのだと。
それは、紫の暗躍が見抜かれていたということで、リリカの智謀が紫の想像を遥かに超えていたということで、掌の上に居たのは紫なのだという紛れも無い事実であった。
「世の中そんなに自分の思い通りには動かないって。言っとくけど踊ってあげてるのは私たちだけじゃないよ」
「なっ――」
「私の知ってる限りじゃ、永遠亭の月の頭脳は私より早く気付いてたみたい。バケモノよあの人は。今は私たちも同盟を結んでるけど、どんなタイミングで裏切られるかと思うと夜も眠れやしないわ」
動揺に染まる紫を楽しげに一瞥して、リリカは橙の縄をするするとほどいていく。元々そんなにきつく縛ってなかったのか、十秒もしないうちに橙は藍の胸元に飛び込んでいた。
「藍さまぁ、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「…………」
「私がもっとしっかりしてたら、こんなことにはならなかったのに……!」
胸の中で泣きじゃくる橙の頭を撫でながら、藍は殺気を込めてルナサを睨みつけていた。
橙を泣かせたお前を絶対に許さない。刃のような殺気が、明確な言葉となってルナサに襲い掛かっていた。
「子供一人に前線を任せておいて、裏をかかれないと思ってる方が間違っているのではないですか? 自分の非を悔いるのならまだしも、私たちのせいにするのは責任転嫁というものでしょう」
対するルナサの反応は、実に冷たいものだった。嘲笑うような笑みを浮かべ、肩をすくめるその姿は滑稽なほどにルナサらしくなかった。何かに体を乗っ取られたのだと言われても信じてしまいそうなほどに、ルナサは変わってしまっていた。
「反省会は後でゆっくりとやらせて差し上げます。でも、その前に私たちの用件を果たさないと。わざわざこんな辺鄙な所まで忠告だけをしに来たわけではないですからね」
ルナサは、つぅと右手を高く掲げた。それに合わせるように灰色の壁が立ち上がる。百にも届く毛玉の群れ。僅か三人を戦闘不能にするには十分すぎる数だ。
「臣従する――と言っても応じる気は無いのかしら?」
「必ず暴発する火薬庫を抱える趣味はありませんよ」
三人とも貴重な戦力になることは間違いなかった。人員が悲しいほどに不足しているプリズムリバー軍にとって、紫を筆頭とした八雲の面々は喉から手が出るほど欲しい人材なのである。
だからといって自分の手元に置いておくには危険すぎる。紫の企みを看破出来たのは、不自然な戦闘の広がり方にリリカが疑問を持ち紫を徹底的にマークしていたからに過ぎない。それも確信に至ったのは永遠亭からの使者が来たから。リリカは自分よりも紫の方が切れることを自覚していた。当然、ルナサも。
しばらくは集中して見張ることが出来ても、いずれ遠征するようになって見張りの目が遠くなれば紫の暗躍を止めることは不可能である。自分たちがしたように裏切られることは目に見えていた。いくら紫たちが頼りになるとはいっても、味方に引き入れるのはここぞという時に勝手に爆発する火薬庫を作るのと同じことなのだ。
「自爆機能付き火薬庫、か。言い得て妙ね」
ニヤリと笑う紫を、ルナサは冷め切った目で見つめていた。何か足掻けるものなら足掻いてみろと、そう言っているようだった。
「火薬庫はね、いつも爆発の危険でいっぱいなのよ」
「だから?」
「あなたのような火種を消すための細工くらい、いくらでもあるってことよ!」
紫は、部屋の隅の畳を力いっぱい踏みつけた。ガコンと何かが外れるような音がして、左右の壁が冗談のように倒れる――
「紫、様……」
「私、何も言ってないよ……?」
「……まさか、全部見破られてるなんてね」
絶望の藍、驚愕の橙、諦観の紫。
三人とも微妙に異なる感情を抱いてはいたが、頭を支配する結論は同じだった。
――もう、打開する術は無い。
「やっほー姉さん、元気?」
メルランの明るい声が、張り詰めていた空気をほわほわと包み込む。まるで自分の家のように、メルランは満面の笑顔を浮かべていた。
「それは私の台詞だよ。メルランこそ怪我は無いか?」
つられるように、ルナサの表情が緩む。憑き物が落ちたように、紫たちがよく知る少しばかり真面目すぎて、優しい長女に戻っていた。
「大丈夫大丈夫。これだけ数が違ったら怪我なんてするわけ無いって」
壁の向こうにいるはずだったのは、紫がもしもの時のために忍ばせておいたとっておきの伏兵。しかし、それらはメルランが指揮する毛玉たちによって悉く蹂躙されていた。今では、灰色の絨毯となって畳を隠す役目しか果たすことが出来ない状態になっている。
紫は伏兵の存在を気取られぬよう、厚い壁で万全の防音を施していた。それが仇となり、伏兵が強襲されても気付くことが出来なかったのだ。尤も、気付いたからといってどうにかなるような戦力差でもないのだが。
「メルラン姉さんに限ってそれは無いって。だってメルラン姉さんだもん」
「あーリリカ、また私のこと馬鹿にしてるでしょ」
「してないって。いつも頼りにしてるよ、姉さん」
「……まったく。敵陣だぞ、二人とも。少しは緊張感を持ったらどうだ?」
楽しげな声が、ルナサの一声で消える。それと同時に、和やかな空気も霧散した。
「そうだねー。早く終わらせて夢幻館を落とさなきゃいけないし」
「私たちは負けられないのよね。目的を果たすために」
「そういうこと。さあ、意識を切り替えるぞ。戦争の時間だ」
仲の良い三姉妹は一瞬にして喪失した。ほんの少し前まで楽しげに会話していた面影は欠片も見当たらず、三人が三人とも獲物を狙う鷹のような目をしていた。気味が悪いほど冷静で、どこまでも感情が感じられない。
紫は思う。策が見抜かれていようとなかろうと、どうせ自分たちではこの娘たちに太刀打ち出来なかっただろうと。あまりに覚悟が違いすぎる。遊びだとしか思っていない自分たちと違い、この娘たちは何か別の理由で参加している――。
何がそこまで彼女らを動かすのか、紫は少しばかり気になった。しかし、それを知る術も、機会も、資格も無い。
八雲は今、ここで終わるのだから。
「そろそろ終わりにしましょうか。何か、言い残すことは?」
「せいぜい頑張りなさい。私みたいに寝首をかかれないようにね」
機械人形のような三姉妹を睨みながら、藍はここで脱落することになって良かったと考え始めていた。
幻想郷は掛け値無しの戦場になる。事件の黒幕である紫の思惑を遥かに超えた途轍もない何かが、いつの間にか「大規模な弾幕ごっこ」を「死人が出ないだけの戦争」に変えてしまっていたのだ。
橙に、そんな世界に触れてほしくない。この世の地獄なんて、知ってほしくない。地獄を知り尽くしている藍だからこその結論だった。
そして、目の前には無数の死神の鎌。意識することも無く、藍は橙の前に立って両腕を広げていた。
「橙には指一本触れされない……!」
「藍さま! そんなことしたら、藍さまが――」
「――眠りなさい」
パチンという指の音。それが三人の耳に届くころには、視界は灰色で塗りつぶされていた。
ゆかりん墜つ。割と珍しいかもしれないですね。
確か、最後まで勝ち抜いたら一つだけ願いが叶う、とかそんな設定だった気がします。
このSSの主役が紫である以上意味は全くありませんが。