「…………」
高校三年生になった俺は、ちっとも進まない受験勉強を放り出し、ベッドに寝転んで天井を見上げていた。すっかり夏も終わり、そろそろ本格的に勉強しなければならないのだけれど。今の俺はそれどころじゃなかった。
「……志貴さま、夜食をお持ちしました」
控えめなノックと共に、翡翠が静かに部屋に入ってくる。
「ん、ありがとう」
体を起こし、お盆を受け取る。お盆の上には、ほこほこと湯気の立っているおにぎりと漬物がのっている。
「志貴さま、失礼ですが勉強の方は――」
言葉を濁しながらも、俺の目をしっかりと見つめて言う。俺がちゃんとしているか見て来るように秋葉に言われているんだろう。
「うーん、はっきり言ってしまえばぜんぜん進んでないかな。ちょっと考え事があってね」
「……志貴さま」
目が据わる。『志貴さまは遠野家のご長男なのですから』という台詞を目で語っているような気がしてちょっと怖い。
「いや、えーと、俺も勉強しなきゃな、とは思ってるんだけど――」
視線をフラフラさせ、意味も無く手をバタバタさせ、何とか状況を改善しようと思考を巡らす。とはいえ、翡翠に俺の問題を話すわけにはいかないし。かといってこのままだと秋葉に俺の怠慢を報告されそうで怖い。何とか翡翠を味方に引き込むいい案は――
「あ、あった」
俺はポン、と手を叩き、翡翠に言った。
「翡翠、プレゼント貰うんだったら何が欲しい?」
「……」
翡翠は動かない。眉一つ動かさない。それどころか呼吸をしている様子さえない。
「……翡翠、聞いてる?」
「志貴さま、よく聞こえなかったのですが」
感情を殺しているのではなく、感情そのものが無いような棒読みの声。壊れかけのロボットみたいだ。
「だから、プレゼント貰うんだったら――」
「―――!」
ズザザ、と音がするほど物凄い勢いでドアまで下がる。顔には戸惑いと恐怖が浮かび、両腕は体を守るように自分を抱きしめている。
……何もしてないけど、俺。
「ひ、翡翠?」
「あ、あのっ、志貴さま、わたしは志貴さまに贈り物をしてもらうような身分ではありません。そ、それにですね、贈り物をしようとする人物に何を欲しいか尋ねるのは愚行というか、あ、いえ、別に志貴さまが愚かというわけではなく、その――」
あたふたと顔を真っ赤にしながら捲くし立てる。普段見られない姿だけに可愛らしい。
「志貴さまがわたしに贈り物をしてくれる、ということは嬉しいのですが、その気持ちだけで十分というか、で、でもどうしても、と仰るならわたしは受け取らないわけにはいかないんですが――」
「いや、別に翡翠にプレゼントするわけじゃないからそんなに慌てられても困るんだけど」
「…………はい?」
あ、固まった。
「俺さ、近いうちに会いにいく人がいるんだけど、手ぶらっていうのもなんだし何かプレゼントを持って行こうかなって。でも自分じゃ決められないから翡翠の意見を参考にしようかと――」
「志貴さま」
いつの間にやら目が据わっている。怖い。
「あまりに愚鈍すぎて言う言葉もありません」
思わずエスケープしようとする意識を何とか押し留める。ただ翡翠に本当のことを話さずに協力してもらおうと思っただけなのに、何故?
「……」
何故殺されそうなほど怖い翡翠に睨まれなきゃいけないのだろう?
「翡翠ちゃん、何をして――」
ノックして現れた琥珀さんは、俺たちを見て言葉を最後まで言うことも無く固まってしまった。いや、誰であっても固まると思うけど。
「なるほど、そういうことだったんですね」
俺が事情を説明すると、やけに上機嫌に琥珀さんは笑った。ちなみに翡翠はもう部屋にはいない。
「志貴さん、もう少し人の気持ちを考えてあげなくちゃいけませんよ。翡翠ちゃんじゃなかったらもっと酷いことになってたかもしれません」
めっ、とでも言いそうな仕草で琥珀さんは言う。楽しそうなのは相変わらずだ。
「まあ翡翠ちゃんには近いうちにちゃんとプレゼントを贈ってあげて下さいね。志貴さんの考えがどうであれ、志貴さんが翡翠ちゃんを傷つけたのに間違いはありませんから」
「……はい」
人の気持ちって難しいなー、なんて改めて思ったある秋の夜だった。
「それで志貴さん、本題の方ですけど」
「はい」
「相手の趣味とか知りませんか?」
「全く知りません」
俺の返答に、琥珀さんは苦笑を漏らした。趣味も知らない相手にプレゼントを贈ろうとはどういうことよ、と目が語っている。
「事情は話せませんが、とにかく俺はその人に会いに行かなくちゃいけないんです。趣味を知る方法は一切ありません」
「困りましたね。相手を知ることがプレゼントを選ぶ第一歩なんですが」
あまり困っている風に見えないのは気のせいだろうか。
「分からないのなら趣味に左右されるものは止めたほうがいいと思います。何か当たり障りの無い物を志貴さんが自分で作ってはいかがでしょう?」
手作りってことか。うん、いいかもしれない。どうせあまり高いものは買ってあげられないし。
「問題は何を作るかって事だけど――」
「それは志貴さんが決めることですよ。志貴さんが作ってあげたいって思う物を一生懸命作って差し上げればいいと思います」
俺が作ってあげたい物……か。うん、それなら考えられそうだ。
「ありがとうございます琥珀さん。おかげで助かりました」
「いえいえ。礼には及びませんよ。何か協力できることがあったら、遠慮なく仰ってください」
くすっと笑って、琥珀さんは部屋を後にした。
「そうだ、翡翠ちゃんの件、きちんと考えてあげて下さいね」
なんて言葉を残して。
「あ、志貴ったらそんな格好良い服着て。どこか行くの?」
「あのなアルクェイド、結構前から言ってただろ? 今日は用事があるって」
「そういえば言ってたような……。そんな用事すっぽかしてさ、わたしと遊びに行こうよ!」
運良く休日の今日。俺は押しかけてきたアルクェイドを必死に説得していた。随分と前から今日のことは言っていたにもかかわらず、こっちのことなど御構い無しだ。
「頼むよアルクェイド。今日はどうしても外せないんだ」
「じゃあ、わたしも一緒に行っていい?」
「……ダメだ、悪いけど」
「むー、志貴のけちー!」
そういえば先週は先輩に今日の服を見繕ってもらってたし、その前の週は琥珀さんと買い物に行ってたからアルクェイドとは随分一緒に遊んでないような気がする。でも、だからといって――
「とにかく、今日はダメなんだ。来週は絶対どこかに連れてってやるから、今日の所は勘弁してくれ」
「そこまで言うのなら何も言わないわよ。その代わり、来週は絶対付き合ってもらうからね」
「ああ、約束だ」
どうやら納得してくれたらしいアルクェイドに俺は内心ほっとした。時間の関係もあってこれ以上粘られると困るところだった。
「じゃあ、俺はもう行くから。琥珀さん、遅くても夕食までには帰ってきますから夕食の準備お願いします」
「はい。いってらっしゃいませ、志貴さん」
家を出て、時計に目をやる。……む、あまり時間が無い。
「ちょっと走ろうかな。遅れるのは嫌だし」
自分一人で勝手に決めた時間だけど。それでも遅れるのは気が進まない。
俺は走り出す。さて、今日はどんな一日になるんだろうか――。
ガタンゴトン、ガタンゴトン……。
「だから走りたくなかったのに。帰ったらアルクェイドに文句言ってやらないと」
俺は外よりも少し暑い列車の中で、出てきた汗を拭きながら呟いた。いや、別に文句なんて言う気は無いけど。
少し走ったおかげで、何とか時間通りの列車に乗ることができた。開いた窓から入って来る風が気持ちいい。
「……眠い」
今日、早起きしたからだろうか。列車に乗った途端、猛烈な眠気に襲われた。
「……」
俺は荷物を横に置いた。どうせ一時間は列車の中だ。少し眠っても構わないだろう。
あれこれ考えなくても済むし。
目を閉じる。視界が闇に覆われ、代わりに風が微かな香りを帯びる。閉じられた視覚に代わり、嗅覚が辺りを把握しようとしている。
体が勝手にすることとはいえそんなことしなくてもいいのに、なんて思ってしまう。どうせ今から俺は寝るんだから、脳にも休んでもらいたい。
すぐに風から香りが失せた。次に風そのものを感じなくなる。列車の音が段々遠ざかっていく。音が完全に聞こえなくなったとき、意識は深く沈んでいった。
――ふと気が付くと、俺は夕陽の中にいた。
「ここは一体……」
俺は列車の中にいたはずなのに、いつの間にかどこかの道に立っている。
「あれ、ここもしかして――」
少し落ち着いてみると、辺りの風景には見覚えがあった。もう通りだしてから一年になる、通学路だった。
「そっか。夢、か」
――だって。少し歩いた俺の目の前には――
『そうなんだ。それじゃ途中まで一緒に行こっか』
『う、うん―――そうだよね、帰る道が一緒なんだから、途中まで一緒でもおかしくないよね!』
――一年前の、俺と弓塚がいるんだから。
二人は、とても楽しそうだった。先のことなんてちっとも知らないで、平凡な今が明日も続くと思い込んでいた。
それが、どうしようもなく羨ましくて、辛くて、悲しい。
二人は歩いていく。取留めの無い会話をしながら。その会話が途切れた後は、少女が思い出を語りながら。
たくさんの嬉しさの中にほんの少しだけ寂しさがブレンドされた少女は、世界一の画家でも絶対に描ききれないと思えるほど儚げで、美しかった。
瞬くような、僅かばかりの二人の道が終わりを迎えたとき。
『だからまたわたしがピンチになっちゃったら、その時だって助けてくれるよね?』
『そうだね。俺に出来る範囲なら、手を貸すよ』
二人は約束を交わした。
その時の遠野志貴にとっては、彼女をがっかりさせたくないがための、何気無い約束。
今の遠野志貴にとっては、何も果たせないまま色褪せてしまった、セピア色の約束。
そして。
「君にとってはどういうものだったんだ、弓塚――?」
――目が、覚めた。
「懐かしい、夢だったな」
忘れられない記憶の断片。誰にも話していない、誰にも話せない、十字架の欠片。
駅への到着を告げるアナウンスと共に、列車はスピードを落としていく。ブラインドを上げると、爽やかな青色が広がっていた。
苦笑と共に吐き出した溜息は、沈みかけた気持ちと一緒に青空に吸い込まれていった。
「静かで、良い所だな」
駅を出た俺は、開口一番そう呟いた。
辺りに家はほとんど無く、一面に草原が広がっている。視界を遮るものはほとんど無く、耳に入るのは虫の鳴き声ばかり。この時期にしては暖かい風が、柔らかく草を揺らしている。
「さて……と。早く探さないと、日が暮れるな」
静けさを堪能していた頭を起こし、唯一の人工物である石の群れへと踏み入る。慌てず、騒がず、ゆっくりと。静かな雰囲気を乱さないように、穏やかな気持ちで歩く。
石に刻んである文字を確かめながら、奥へ奥へと進んでいく。目的の石を絶対に見逃さないように、注意を払いながら。
「――これ、か。うん、間違いない」
二度、三度と刻まれている文字を手でなぞる。視覚だけでは頼りないから、触覚も使って確かめる。
目を閉じて、開く。何度同じ作業を繰り返しても、確かな感触と共に、それは間違いなくそこにあった。
大きく、一つ深呼吸。その僅かな間に、忘れられない記憶が電光のように脳内を駆け巡った。
安堵、喜悦、寂寥、悲痛。たくさんの感情が入り乱れる心を抑えて、俺は言った。
「久しぶりだね、弓塚さん」
石には刻まれている。弓塚家之墓、と――。
墓は綺麗に掃除され、花が飾られている。家族や親戚によるものだろう。
顔を合わせなくて良かった。仮に合わせても、「友人です」といって済ませるつもりだったのだけれど。
「本当はもっと早く来るつもりだったんだけど。ごめん、どうしても踏ん切りがつかなかったんだ」
聞いているかも分からない弓塚に謝罪する。
俺はもっと早く来なければならなかったのに。罪の意識がどうしてもここに来ることを躊躇わせた。情けない。
「あれからもう一年も経ったよ。元気にしてるの? ……俺は元気だよ。毎日楽しくやってる」
視線を下げないように、逃げないように心に喝を入れながら、俺は言葉を紡ぎ続ける。
「今は受験生の身だから勉強が大変だけど、毎日ドタバタして心を落ち着ける暇も無いくらい充実してる。遠野の家にもすっかり馴染んだし、大切な人もたくさん出来たんだ」
少しだけ視線を下げると、供えられた名前のよく分からない花が目に入ってきた。どこかで見たことあるんだけどな、なんてぼんやりと思っているうちに、俺もプレゼントを持ってきていることを思い出し、手提げ鞄を探った。
「忘れてたけど、弁当作ってきたんだ。食べ物の好みは分からないけど、多分不味くは無いと思う。これでも人並みには料理できるからね。はい、これ弓塚さんの分」
供えられている花の横に弁当を置き、紙コップにお茶を注いだ。魔法瓶の中で暖かさを存分に保ったお茶は、場違いなほど多くの湯気を吐き出している。
「ちょっと熱すぎたかな? すぐ冷めると思うから少し待ってね」
言いながら、折り畳み椅子と弁当を手提げ鞄から取り出す。
「それじゃ、失礼して……俺も一緒に食べていいかな? 昼食まだなんだ」
椅子に座り、玉子焼きに手をつける。
――うん、なかなかの出来だ。秋葉に隠れて琥珀さんに習った甲斐があったってものだ。
「どうかな? 自分としては悪くないと思うんだけど。気に入ってもらえると嬉しいな」
続いて鮭に。……む、ちょっと塩が足りない。まだまだ要修行だ。
「一緒に弁当を食べることなんて一回も無かったね。……残念だ」
言って、激しく後悔した。自分の心が沈むような言葉はNGだと、今更のように思い出した。でも、あまりにも遅すぎる。一度発してしまった言葉は消え去ることなどある筈が無く、俺の心を瞬時に凍りつかせていく。
「あんなことが無ければ、一緒に食べる機会もあっただろうね……あんなことが無ければ……」
最悪な方へ、最悪な方へと転がってしまった遠野家の内輪揉め。誰も悪くなかったとはいえ、それが弓塚の人生を終わらせてしまったことに間違いは無い。
「ごめん、弓塚さん。俺たちの勝手な揉め事に巻き込んでしまって、本当にごめん――」
こんなことを言いに来た訳じゃなかった。泣き言は言わない。笑っていようと、何度も言い聞かせてきたのに。視線は、手元の弁当に吸い寄せられたように上がらず。表情は、冷凍庫に突っ込まれたように固まってしまった。
元気な遠野志貴を見せるつもりだったのに。明るく過ごしている自分を見せたかったのに――
――だめだよ遠野くん。お墓参りに来たのなら、明るい顔を見せてくれないとね。
「……え?」
目の前から、声。
――せっかく来てくれたのに、そんな顔されたらわたしの方が困っちゃう。笑ってよ遠野くん。遠野くんにそんな顔は似合わないよ。
目の前には、誰もいないはずだ。そもそも、この声は――
「久しぶりだね、遠野くん」
「……」
誰もいない筈のそこにいる誰かを見た瞬間、俺の頭は機能を全て停止した。
「もう会いに来てくれないのかと思ったけど。ありがとう、来てくれて」
「…………」
「遠野くんが元気そうで安心した。あんまり下の世界は覗けないからね」
「…………………」
「あれ? 遠野くん、聞いてる?」
「………………………」
「おーい」
俺の目の前を何かがひらひらしている。多分手だと思うのだけれど、脳が全く働いてくれなくてよく分からない。
「遠野くん、そんなに驚かれると困っちゃうんだけど」
苦笑した誰かの顔が近づいてくる。少しだけ色素の薄い茶色がかった瞳が印象的な、整った顔。
「うーん、遠野くんなら幽霊の一人や二人くらいどうってことないと思ったんだけど――」
誰かは腕を組んで考え込んでいる。一体何を考えてるんだろう?
「起きてよ遠野くん。わたしは遠野くんに触れないからどうにも出来ないんだよ」
目の前の女の子はオロオロしている。どうしようと呟きながら首を振るたびに、ツインテールが女の子の顔を叩く。
「もしかしてからかってる? 幽霊相手に冗談なんて嫌だよ?」
どうやら女の子は幽霊みたいだ。まあいきなり目の前にいるんだからそりゃまともな人間ではないだろうけど。うちの制服を着ているから知っている人かもしれない。学校の知り合いで生きていない人? そんなの一人しかいない。それは――
「弓塚さん!?」
「うわっ、いきなり大きな声出さないでよ遠野くん」
思わず大声で叫びながら立ち上がる。しばらく動いていなかった頭がリハビリのために無理矢理出したような裏返った声だった。
「弓塚さん……だよね?」
「あ、やっと起きたんだ遠野くん。いきなり固まっちゃうから心配したんだよ」
「いや、誰であっても固まるよ。いきなり幽霊が話しかけたりしてきたら」
「うん、それはもっともだね」
「うん、もっともだよ」
よく分からない会話を交わしている間に、頭は急速に状況を把握していく。
「……幽霊っていたんだね」
「わたしもなってみるまで気が付かなかったけど。生きているうちは会えないだけなんだよ、本当は」
くすっと笑いながら言う。あれ、でもおかしい。
「じゃあどうして弓塚さんは俺と会うことが出来るの」
「わたし頑張ったから」
「……何を?」
「聞きたい?」
話したそうにうずうずしている。話したがるってことは、多分聞いて悪いことじゃないんだろう。
「うん、聞きたい」
「それじゃ、教えてあげる。遠野くんにはあまり関係ない話だけどね」
そう言って、嬉しそうに話し始めた。
――なんでも、何らかの理由(弓塚の場合は吸血鬼になったこと。ほとんどは生前に罪を犯すことらしい)で汚れてしまった魂は天国に行く前に浄化しなければならないらしい。それで今は犯罪者が刑務所で罪を償うように労働をしながら汚れを浄化しているとか。
「だから生活自体は生きている時とあまり変わらないんだ。お休みの日なんかもあるし、毎日楽しくやってるよ」
「む、それは良かった。でも、それと今ここにいるのとどういう関係が?」
「遠野くん、せっかちはだめだよ」
ぴっ、と人差し指を立てながら笑う弓塚を見て、本当に楽しくやってるんだ、と実感できた。
「あれ、遠野くん何か良いことあった?」
「あったけど教えない」
だって照れ臭いし。
「……じゃあ続けるよ。ここからが遠野くんの疑問に答える所だからね――」
――弓塚たちが働いている所は、労働の頑張りに応じて様々な特典をくれるのだそうだ。労働の期間を短くすることだったり、こっちの世界を覗くことだったり、誰かの夢枕に立つことだったり。中でも一番貰い難い特典が――
「一時的にこっちの世界に帰って来ること。もっと頑張れば仮の肉体を借りることも出来なくはないんだけど、それをするとこっちの世界を見る余裕が無くなっちゃうからね。簡単に言えばポイント性なんだ、特典は」
「何だかやけに合理的だね」
「閻魔さまも嘆いてたよ。昔はこんなじゃなかったーってね」
「じゃあ、弓塚さんはいつもこっちを覗いてるの?」
「あはは、そんなの無理だよ。ここに来るためのポイント溜めなきゃいけないから、覗けるのは一ヶ月に五分くらい。遠野くんが楽しくやってるのが見られればいいんだからそれくらいでちょうどいいよ」
「…………」
そう、か。俺のこと、心配してくれてたのか。弓塚は何も悪くないのに。心配しなきゃいけないのは俺の方なのに。
「……」
ギリ、と拳を握り締める。弓塚がこんなに心配してくれてるなんて思ってもみなかった自分に。そんな弓塚をこんなにも待たせてしまった自分に。殺してしまいたいくらい、腹が立った。
「……ごめん、弓塚さん」
「……ごめんね、遠野くん」
綺麗に声がハモった。お互いに目を見合わせ、そして――
「どうして弓塚さんが謝るの?」
「どうして遠野くんが謝るの?」
――打ち合わせているように、見事に声が重複した。
「えっと、どうして遠野くんが謝るのかな」
あはは、と二人で乾いた笑いを漏らしたあと。弓塚は、真剣な顔で聞いてきた。
「俺、弓塚さんを殺した。その選択は正しかったんだって思ってるけど、だからって許されることじゃない。だからかな。俺は一人で被害者ぶって、弓塚さんに会いに来ることもしなかった。被害者は弓塚さんで、俺は本当は毎日でも来なきゃいけなかったのに。だから、ごめん。ごめんなさい――」
弓塚の目を見ることも出来ず、震える声で、言った。
「だから、わたしはやっぱりごめんなさいなんだ」
俯いていた俺に、声。
「遠野くんがそんなだから、わたしはやっぱり謝らなくちゃいけないんだよ」
「弓、塚?」
「ごめんね、遠野くん。遠野くんは何も悪くないのに、被害者だなんて思わせてしまって」
弓塚の顔は穏やかで。泣く子を慰める母親のよう。
「わたし、分かってたんだ。遠野くんはきっとわたしを殺すだろう。そのことを遠野くんはずっと悩むんだろうって。だから、わたしは遠野くんに恨み言をいっぱい言って消えるつもりだった。いっぱい、いっぱい考えてた。遠野くんが、わたしのこと早く忘れてくれるようにって。遠野くんが、わたしのことなんかで心を痛めないようにって。でも、駄目だった。ねえ、覚えてる? わたしが、最期に言ったこと」
「……」
無言で頷き、肯定の意を示す。忘れる筈が無い。忘れられる筈が無い。
「わたし、最期の最期で我侭だった。遠野くんに忘れられたくなかった。嫌われたくなかった。だから、遠野くんにこんなに心配させて、迷惑かけちゃった。ごめんなさい遠野くん。……こんな我侭な女のせいでいらない罪を背負わせてしまって、ごめんなさい」
「…………」
――言葉が、出ない。
穏やかな瞳から止まらない涙に声がさらわれていくよう。でも、俺は何か言わないと。弓塚が俺のことを想っていてくれたのだから、俺はそれに答えてやらないと。
「じゃあ、無しだ」
考えも無く、そんな言葉が口から出た。
「……遠野、くん?」
「お互いに謝ったんだから、もう終わりにしようってこと。忘れちゃいけないけど、いつまでも気にしてちゃだめだと思う」
「……」
あ、弓塚がキョトンとしてる。俺だって何言ってるかよく分からないんだから、そんな鳩が豆鉄砲食らったような顔はしないで欲しい。
「それにさ、もっと弓塚さんの話聞きたいんだ。弓塚さんも泣いてばかりじゃつまらないでしょ?」
「……あはは、やっぱり遠野くんは遠野くんだ」
弓塚が笑い出す。別に笑わせるつもりなんて無かったんだけど、構わない。
「うん、そうだね。わたしも、もっともっと遠野くんと話していたい。だから、遠野くんの生活もいっぱい話して欲しいな。大切な人、いっぱい出来たんでしょ?」
「それじゃ、弓塚さんが帰らなきゃいけなくなるまで話そうか。お昼ごはん食べながらね」
箸をくるっと回して見せると、弓塚は嬉しそうに笑った。幽霊だと忘れるくらい、生き生きとした笑顔だった。
俺は、たくさん話した。
毎日のように屋敷にやって来る、子供のような白い吸血鬼とか。
凛としすぎていて怖い、頼りになりすぎる妹とか。
学校での話とか、そんな話。
弓塚も、たくさん話した。
俺と同じ名前を持つ、白い髪の男と友達になったとか。
そいつから大体のことは聞いたから、俺のことはよく知ってるんだ、とか。
労働に特典が付いているのは、昔の人たちがよく集団で反乱を起こしたからだとか、そんな話。
弁当はすぐに空になって食べるものは無くなってしまったけど、俺たちは喋り続けた。何時間も、時間が経つのも忘れて。
気が付けば、辺りは赤一色に染まっていた。鮮やかな赤色で全身を染め上げて、弓塚は少しだけ悲しそうに笑った。
「そろそろ行かなくちゃいけないんだ、わたし。太陽が見えなくなる前に行かないと、閻魔さまに怒られちゃうからね」
「そっか。もう、そんなに時間が経ったんだ」
「今日は楽しかった。私服の遠野くんも見れたし」
「弓塚……」
寂しそうに笑う弓塚を前に、俺は必死に考えていた。
別れるには、何か足りない。その前に、何かしなければならないんだけど――
「――遠野くん? 聞いてる?」
「え? あ、悪い。ぼーっとしてて、聞いてなかった」
早く考えないと。早く。何でもいいから、何か言うんだ遠野志貴。よく分からないうちに別れてしまうのはごめんだ――
「ねえ、弓塚さん」
「何?」
思考がぐるぐる回っていてよく分からないまま。
「今度、いつ会える?」
よく分からないことを、口走っていた。
「…………」
「…………」
沈黙が流れていく。のんびりと沈んでいく太陽が、こっちを見て笑っているように見えた。
「……一年後」
弓塚の口が、動く。
「一年後の今日、同じ時間に」
ゆっくりと、噛み締めるように。
「その時に、また会えるかな?」
祈るように、言った。
「…………」
赤く染まった弓塚の姿が、一年前と重なった。弓塚は、あの時も本気だったのだろう。ただ、俺が分かってやれなかっただけ。
でも、今なら分かる。痛いくらい、弓塚の気持ちが溢れてくる。あのときの俺は答えてやれなかったから。今度は、形だけのものじゃなく――
「ああ、絶対会いに来るよ。遠野志貴の全てを懸けて、約束する」
――迷いの無い気持ちを込めて、約束を交わした。
「良かったのか、あれで」
志貴と別れ、そろそろ戻ろうとしていた弓塚に声をかけたのは――
「あれ、シキくん。どうしてこんな所に?」
「ちょうど暇だったからな。冷やかしてやろうって思ったんだが、ちょっと間に合わなかったみたいだな」
――白い髪、紅い瞳、紺色の着物。遠野シキ、その人だった。
「ふーん。シキくんって暇人で、脅迫好きで、その上お人好しだったんだね。知らなかった」
「ハッ、全てお見通しってか。でもお人好しは余計だ。そんな柄じゃねえよ」
嬉しそうに肩を竦め、シキは真っ直ぐに弓塚を見つめた。
「それで、本当の所はどうなんだ。どうして一年後なんてアホなことを? あいつなら毎日だって来そうなもんだがな」
実際のところ、がんばって働くと半年に一回くらいは来ることが出来る(墓の半径一メートル以内限定だが)。シキが言っているのはそのことだった。
「いいの、あれで。遠野くんとわたしは違うんだから、あんまり会っちゃいけない。それに一年に一度しか会えないなんて、彦星と織姫みたいでちょっと格好良いしね」
そう言って、弓塚は笑う。思わず見惚れてしまうような、屈託の無い笑顔。
「相変わらず、いい女演じてるんだな。こっちに来れるくらいあの地獄の労働をこなしてる変わり者なんてお前くらいなんだから、少しくらい自慢すればいい」
シキは、自分のことのように笑い。
「大切な人の前では誰だってそういうものだよ。誰であっても」
弓塚は、含みのある笑みを漏らす。
「さてと。閻魔さまに謝るの、手伝ってあげるよシキくん。どうせすっごい無理言って来たんでしょ? ちょっとでもペナルティ減らしてもらわないとね」
「あんなジジイ相手に謝るも何も無いな。偉そうに何か言ってきたらぶちのめすだけだ」
「あーあ、そんなこと言ってボコボコにされたのは誰だったかな?」
「もうあの時とは違うんだよ。ニューシキを見せてやるぜ」
「それじゃ尚更一緒に行かないと。ほら、早く行こ? わたしももうここには居られないし。シキくんに借りっ放しだったポイント、返さないといけないしね」
弓塚の姿が薄れていく。数秒の内に、赤い世界に溶けるように消えていった。
「やれやれ。俺も帰るか」
同じように、シキも消えていく。姿が消える、その前に。
「安心しな志貴。弓塚さつきは元気だ。他のヤツとも、うまくやってる――」
そんな声を、世界に残していた。
「………」
俺は、思いがけず遭遇した非日常を思い返していた。
「また来年、か……」
来年の十月二十三日には、もう予定が入ってしまった。何があっても破ることの出来ない、でも何よりも嬉しい、再会の約束。俺はその約束を、深く、深く心に刻み付けた。
もう果たせないと思っていた約束を果たせるという不可思議に、心が躍る。前のとは別? そんなこと関係ない。俺なんかのことを心配して見守っていてくれる弓塚に報いることが出来るのだから、そんなことは瑣末だ。
「さて、来年はどんなプレゼントを持って行こうか――」
言って、ふと一つの案が浮かび、一人笑みを浮かべた。弓塚本人と会うのだから、物なんかより。
「たくさん楽しい思い出を作って、たくさん話してやろう」
そのほうが、何倍も喜んでもらえる気がした。
「そういえば、翡翠にも何かプレゼントをあげなきゃな」
来年の弓塚へのプレゼントを早々に決めた俺は、ふと翡翠のことを思い出し、帰りに何か買って行こうと思いついた。
「翡翠、相当怒ってたからな……今一番欲しいものを贈ってあげないと」
翡翠が今一番欲しい物。一番、欲しい物――
「あ、そういえば」
一昨日、ハタキが折れたってぼやいてたっけ。どうやったらハタキが折れるのかは分からないけど、結構困ってたような。
「よし、ハタキにしよう。毎日使うものだし、ご苦労様って言う意味も込めて、翡翠が使いやすそうなものを選ばないと」
確か駅前に大きな雑貨屋があった筈だ。あそこなら安くて良い品が見つかりそうな気がする。
「後は渡すタイミングか。翡翠が部屋に来たときか、翡翠の部屋に行くっていうのも――」
そもそも根本が致命的に間違っていることなど、俺は知る由も無く。
琥珀さんに散々笑われることなど露知らず、俺はわくわくしながら渡すタイミングを思案し続けた。
後書き! 知得留先生
「一年後の遠野くん、如何でしたでしょうか? 不可思議なお墓参り、これにて終了です」
「あちし、出番ほとんど無かったにゃ。おまけにシエルのセンスを褒めたりして、良い事無しにゃ」
「まあぼやいてるバカ猫は放っておいて。今回は弓塚さんの物語でした」
「幽霊がでしゃばり過ぎにゃ。志貴も志貴。あちしと遊んでた方が楽しかったに決まってるにゃ」
「ちゃんと見てましたかアルクェイド? 今回のお墓参りで遠野くんは随分と背負った十字架を削ることが出来たんですよ」
「知得留に言われなくてもちゃんと見てたにゃ。だから十字架を降ろすことは出来ないこともちゃんとわかる。毎年訪れるたびに、少しずつ削っていくんだろうにゃ」
「そうですね。どれだけ削ることが出来ても、全てを降ろすことは出来ないでしょう。そこら辺は遠野君の優しさによるものですから、仕方ありませんね」
「それにしても、シキまで出てくるとは驚いたにゃ」
「シキにも多少の罪の意識があったんでしょう。だからこそ弓塚さんに接触した訳ですね」
「仲良くなったのはさっちんの魅力か? さっちん大人気にゃ」
「どこかの能天気吸血鬼とは雲泥の差ですね」
「台詞が一言も無かった年齢不詳女よりマシにゃ」
「我侭放題で遠野くんを困らせてばかりのくせに何を言いますか。もともと弓塚さんの物語ですし、遠野くんをコーディネートできたんだから十分ですよ」
「ふふん、何がコーディネート? そんなこと出来るんならそんな地味メガネじゃなくてもっと派手になれるはずにゃ。志貴のコーディネートしたとか言ってるけど、本当はただの荷物持ちだったに違いないにゃ」
「……アルクェイド」
「そのくせメガネなんてかけて。戦闘モードのときは外してるんだから目が悪い筈無いし。センスも無いくせにメガネかけてファン集めようなんてやることが姑息にゃ。卑怯にゃ」
「……」
「んー、言葉も無いか知得留? そりゃそうだにゃ、そこまでして人気であちしに足元も及ばないなんて、哀れすぎて涙が出てくるにゃ。あー哀れ」
「ふふふ、知りませんでしたよアルクェイド」
「し、知得留? 急に笑い出して、気でも触れたかにゃ?」
「いいえ、私は正気ですよ。ひどく気分が良いんです」
「……で、何を知らなかったのかにゃ?」
「教えて欲しいなら教えてあげます」
「にゃっ、どうして知得留のくせに黒鍵なんて――」
「そんなに死にたいなんてちっとも知りませんでしたよー!!!」
「げ、知得留が壊れたにゃ。もうこうなったら後書きなんてやってる場合じゃないにゃ。というわけであちしは逃げる」
「待ちなさいアルクェイド! 世の中には言ってはいけないことがあるということをその身に刻んであげます!」
おしまい
先輩、実際のところ何故メガネをかけてるんですか?