「祐一、明日って空いてるよね」
 晩御飯が終わった後、突然名雪が言って来た。

「明日? ああ、別に暇だけど」
「じゃあ、花見に行こう」

 突然の提案に、俺は目を丸くした。確かにこの辺りはまだ桜が満開だ。以前俺が住んでいたところではとっくに散っているはずだが。

「……別に構わないが、なんだか急だな」
「桜が咲く時期に家でじっとしてるなんて日本人失格だよ」
「そういうもんか?」
「そういうもんだよ」

 多少強引な気もするが、本当に暇だったので行くことにした。名雪の話によると香里と北川、秋子さんまで来るらしい。

「明日、晴れるといいな」
「うん。そうだね」
 窓越しに眺めた空には、たくさんの星が瞬いていた。


 

 次の日。目を覚ました俺の目に飛び込んできたのは、俺たちの願いが天に通じたかのような快晴だった。 
 現在七時。こういうイベントの日はどうしても目が早く覚めてしまう。
 花見に行くのは随分後だからまだまだ時間はたっぷりある。寝直そうかとも思ったが、腹が減っていたので朝食を取ることにした。


「おはようございます」
 俺はもう起きていた秋子さんに声をかけた。俺がここに来てから、秋子さんが俺より早く起きていないことは一度も無い。

「俺の行動が読めるのか……?」
 そんなことは無いと思いつつも、一概に否定はできない。秋子さんだし。

「おはようございます。もう少し寝ていても良いんですよ」
「いえ。お腹すいたもので。朝食はもうできてますか?」
 俺の言葉に、秋子さんは困った顔をした。どうやらまだらしい。
 いい匂いがしているからてっきり朝食を作っているのかと思ったが、違うようだ。

「すぐに作るから、待っていて下さいね」
「はい」

 台所へ戻っていく秋子さんの背中を見送った後、何もすることの無くなった俺はソファーに座ってテレビを見ていた。
 十分ほどしただろうか、いい匂いとともにご飯と味噌汁が運ばれてきた。
 
 名雪の手によって。
 ……名雪?

「何でお前がこんな所に居るんだ?」
 当然の疑問だと思う。

「祐一の朝食を持ってきたからだよ」
 なるほど。

「じゃあ何で今起きてるんだ?」
「お弁当を作ってるからだよ」
 ふむふむ。
 何一つ間違ったことは無いな。謎は全て解け……。
 
「ちょっと待て、名雪」
「今忙しいんだけど」
 台所に戻ろうとした名雪を引き止め、残った最大の疑問をぶつける。


「何でお前がこんな朝早くに起きられるんだ?」
「私のこと、すっごく馬鹿にしてない?」
 気を悪くしたのか、怒ったように眉を顰める。別に馬鹿にしているわけではないのだが。


「たまには私だって早起きすることもあるよ」
 自慢げに、少し胸を張って言う。
 早起きしたことは自慢になるようだ。

「そういえば昨日は早く寝てたな。今日は何時ごろ起きたんだ?」 
「ついさっきだよ。本当はもう少し早く起きるつもりだったんだけどね」
 そう言って苦笑する。随分と起きるのに手間取ったようだ。
 
「あんまり秋子さんに迷惑かけるなよ」
「だから、頑張ってお弁当作るの手伝うんだよ」
 そう言って台所へ戻っていった。


 こんなに早くから作り始めるなんて、どれだけの量になるのだろうか。 
 俺は期待と不安を抱きつつ、今日の花見と弁当にに想いを馳せた。






 ピンポーン

 のんびりテレビを見ていると、不意に玄関のチャイムが鳴った。
「あ、香里かな」
 そう言ってパタパタと玄関に向かっていく。

 
「こんにちは、少し早かったですかね」
 そんなことを言いながら香里が名雪と共に入って来た。
 約束は三時だから、十分ほど早い。
 早いなんていう時間じゃないと思うが。






「そういえば北川はどうしたんだ?」
 三時になり、北川を待たずして出発しようとしている三人に俺は声をかけた。

「北川君は場所取りに行ってるわよ」
「場所取りか……。俺じゃなくて良かったな」
 ほっとため息をつく。一人でただ待っているなんてとてもじゃないが耐えられそうに無い。

「祐一は場所知らないからね。知ってたら祐一も行くことになったと思うよ」 
 知らなくて良かったよ、いやマジで。

「そんなわけですから、そろそろ出発しましょう」
 秋子さんの言葉に、全員立ち上がる。

「それじゃあ、出発だよ〜」
「ノリノリね、名雪……」
「一年ぶりですか。楽しみですね」
 それぞれの楽しげな感じに俺の心も弾む。楽しい花見になりそうな気がした。






「どこまで歩くんだ?」
「まだまだね」
「まだまだだよ」
 既に家を出てから二時間が経過している。電車に運ばれ、バスに揺られ、今はこうして歩いている。弾んでいた心はすっかりしぼんでいた。
 まだまだ……か。この調子じゃ着く頃には夕方になってそうだな。

「あと三十分位ですよ」
 俺の心情を察したのか、秋子さんが具体的に目標を提示してくれる。きちんとしたゴールがあった方がやる気が出るというものだ。

 だが。

「……遠いな」
 思わず呟かずにはいられなかった。三段に分かれた弁当の二段を持っている俺にとって(一番軽い一段を名雪が持っている)あと三十分の徒歩はかなり辛いものがあった。

「ここで文句言っても何もならないんだよな……」
 これで桜がくだらないものだったら暴れてやる。
 そう、決心した。






「なかなか見事だな」
 ようやく目的の場所に着き、俺はホッと一息を付いた。太陽は沈みかけ、オレンジに染まった空は桜の背後でどこまでも広がっていた。
 
 北川を探さなければいけないはずなのだが、3人はキョロキョロすること無く真っ直ぐ進んでいく。
 右へ。左へ。一人ではとても入り口に辿り着けそうに無い桜だらけの道を縫うように、迷わずに。

「なあ、一体どこに行ってるんだ?」
「北川君が待ってる場所に決まってるでしょ」
 即答された。
 まあ、それはそうなんだが……。

 


 しばらく歩いているうちに、花見をしている人たちが段々まばらになってきた。さすがにこんな奥の方まで好き好んでくる人たちはあまりいないようだ。

 俺は、段々不安になってきた。実は北川のいる場所が分からないんじゃないか、とか、実は迷子になってるんじゃないか、とか。

 もう今どこにいるのか全くわからない俺が頼れるのは、楽しげに歩いている三人だけだ。
「大丈夫、だよな」
 一人、呟いてみる。
 不安は、消えなかった。




 
 太陽がほぼ沈み、空はオレンジから漆黒へとその姿を変えようとしている。消えていく太陽を追いかけるようにオレンジは空から去っていく。

 わずかに残ったオレンジの光に照らされた少年を見つけたのは、そんな時だった。
 
「おーい」
 俺はその少年に声をかける。少年は、読んでいた本を閉じ、視線を上げた。

「よう、相沢」
 間違いなく、北川だった。

 北川がシートを広げていたのは、大きな大きな桜の下。これだけ大きな桜なら、人が集まって来そうなものだが。

「こんなところまで来る物好きはあまりいないんだろうな、きっと」
 そう言って苦笑する北川。周りを見ても、俺達の他に人はいなかった。

 

「……美味い」
 北川が持ってきたという小さめのライトに照らされた弁当は、本当に美味かった。
 時々花弁が弁当の上に落ちてきた。その度に、上を見上げた。物言わぬ大樹は、圧倒的な存在感を持って、そこにいた。



 
 苦労して持ってきた弁当は、あっさりと食べ終わった。その後は、いろいろなことを話した。
 学校でのこと。俺の前の土地の友人達のこと。話題は、尽きることが無かった。




「さて、そろそろだぞ、みんな」
 腕時計を覗き込んだ北川が言う。
 
 もう帰るのか? まあ確かにそろそろ帰らないとまずいかもしれないが……。

「もうそんな時間か。随分話し込んじゃったね」
 笑みを浮かべながら言う名雪。

 確かに食べるものはないし、少し肌寒い気がしないでもないが……。

「なあ、もうちょっと……」
「いよいよ今日のメインね」
 俺の言葉は香里に遮られた。メインって……なんだ?

「なあ、今から帰るんじゃないのか?」
 俺一人だけ仲間外れにされているような気がしてきたんだが、気のせいか?

「今からがメインなんですよ」
 のんびりと言う秋子さん。いつもより微妙に機嫌が良さそうだ。

 
 どうやら俺の知らない何かがそろそろ始まるらしい。俺だけ知らないのは少々癪だが、どうせなら知らないほうがいいと思って何があるのかは聞かない。 
 みんなワクワクしている。きっと凄いものなのだろう。
 俺は、何があるのかも知らないまま時を待った。




「よし、そろそろだ。電気、消してくれ」
 北川の言葉に、ライトの一番近くにいた名雪がライトを消す。唯一の光源が消え、俺の目は一時的に何も見えなくなる。

 何も言わずに立ち上がり、桜の下から離れる四人。
 俺も、それに倣う。


「十、九、八、七……」
 北川がカウントダウンを始める。周りも、それに乗っていく。もちろん、俺も。

「三、二、一……」
 一体何が始まるのだろう? 俺の鼓動は、否応なしに高鳴る。

「……ゼロ!!」
 





「メインだな、こりゃ」
 呆然とした。何も言えなかったし、言う気も無かった。ただ、立っていた。
 俺の目に映ったのは、闇夜の中光り輝く大樹。圧倒的な存在感を持って立っていたそれは、神々しさをも宿し俺の目を奪う。
 何時間掛けてでも、見に来る価値のあるものだと思った。 





 どれほどの時間が立っただろうか、大樹は光を発するのを止めた。途端に、闇が辺りを包む。
 俺は、満足感と、寂しさの両方に襲われた。何とも言えない名残惜しさでいっぱいになる。
 再び光らないかという淡い期待を胸に、俺は闇に沈んだ桜を見詰めていた。




「祐一、そろそろ行くよ」
 名雪の声。

「もう……光らないのか?」
 すがるような声になる。情けないような気もするが、何とかもう一度見たかった。

「また来年来ようね」
「……そうだな」
 桜から目を逸らし、空を見上げてみる。一面に広がった星が、俺を見守っていた。

 


 桜に背を向け、歩き出す。名残惜しさは消え、ただ穏やかだった。来年も来ると約束したから。
 目の前を三人が歩いている。俺は、輪の中に加わっていく。来年も、みんなで来れることを願って。







「そういえば相沢、何であの桜が光ったか分かるか?」
「さあな。別にどうでもいいことだろ」
 俺は素っ気無く答えた。世の中いろんなことがある。それでよかった。
 だから面白いんだ。

「実は桜に隠れるような感じで街灯が立ってるんだ」
「……そっか」
 俺を夢のような気分から引っ張り出す。もうちょっと浸らせてくれてもいいだろうに。

「桜が光ってたわけじゃないんだな」
 少しがっかりした。なんとなく、神秘性をまとっていて欲しいと思っていたらしい。

「相沢。もうちょっと考えてみろよ」
 北川はニヤニヤしている。俺の知らない何かを知っているとでも言いたそうな顔だ。

「だから、街頭の光で桜が光ってるように見えたんだろ? それ以上に何が……」
「街灯ってのは、普通いつ点くもんだ?」
「そんなもの、暗くなったらに決まっ……」
 
 暗くなったのは桜が照らされるずっと前。普通ならもっと早くから点いている筈だ。あんな時間に、少しの間だけ点くなんてあり得ない。仮に切れ掛かっていたのだとしても、北川が正確な時間を知っている筈が無い。

「わけ分からん」
 俺は思わず唸った。いくら考えても、納得する答えは出ない。

「世の中、まだまだ分からないことが多いのね」
「そうだな」
 香里の言葉に、俺は素直に頷いた。
 分からないことは分からないままでいい。俺は考えるのを止めた。そして、目に焼き付けたあの光景を、再び思い描いた。







 後から秋子さんに聞いたことだが、あの街灯は1年のあの時期、あの時間にだけ点くものらしい。秋子さんが偶然耳にしたもので、あれを見ると1年健康に過ごせるとか何とか。
 秋子さんが仕組んだものかとも思ったのだが、いくらなんでも街灯をいじくったりはできないだろうと思う。秋子さんだから一概に否定はできないが。

 
 真実は神のみぞ知る。……多分。